第4章 「なぜ苦難があるのか」
ヨブ記1章1~22節
聖書には明確な「人間理解」があります。また人間の生きる舞台である「地上の世界」についても明確な理解があります。聖書はそれを鮮明に記します。創世記は「神と世界と人間」について、限界点まで深く掘り下げる洞察を加えています。この世界は時間と空間に限定づけられている。この限りある世界は、神が創られた被造物である。世界を神の被造物としてとらえることは、この世界を強力に「肯定する」考え方です。この世界には、人間の力で止められない悪と苦難が満ちています。死に至る病があふれています。戦争と飢餓、殺人と暴力は地上から消えた事はありません。人間の営む政治の無力を思い知らされています。しかし、新しい病原菌による感染爆発も、一触即発の戦争も、その破壊する力でこの世界を混沌の中に瓦解させることはできません。人間も同じです。人間は「神のかたち」に創られています。人間は「神の似姿」を生きるように創られているのです。わたしたちは人間の命のはかなさをよく知っています。土塊(つちくれ)のように塵と灰に朽ちていく人間に、創造主なる神は「神の息、神の命」を吹き込み、「生きよ」と言われる。これはとてつもない肯定的な人間観です。人間は神のパートナーのように生きる存在である。これ以上ない人間に対する強力な「肯定」です。
世界と人間を、強力に肯定する力、この力こそ神の力です。この世界と人間を強力に支える力を神の力として聖書は語ります。それは世界と人間を無から創造する力であり、この世界と人間を存在させ保持しているのは、突き詰めると神の意志であることを聖書は明らかにします。それでいて、聖書は理想主義者でも、楽観主義者でもありません。むしろ、その反対です。この世界、この地上についての最大限の絶望を知っています。いかなる思想にまさって絶望的な「人間の偽り」「人間の罪悪性」を認めるのです。もし「神の光あれ」という言葉がなかったとしたら、底なしの深み、混沌が重なり合う世界となってしまう。もし、神の息が吹き込まれていない人間がいたら、それは生き物でなく、ただの土の固まりに過ぎない。このような理解には世界と人間に対するとてつもない否定と肯定があります。この否定と肯定こそ聖書が現実世界を洞察する見方です。それは人間に対する温かな、しかし鋭い見方です。現実を見抜く透徹したリアリズムこそ、聖書の持つ視界と視野です。
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ところで、この世界も人間も神の被造物であるということをわたしたちはどのように受けとめているでしょうか。「あなたも、あなたの生きている世界も神が創られたのです」という言葉を現代人は単純に肯定しません。そのように考え、信じられたらどんなによいだろう、と考える人でも、簡単に信じることが難しいようです。なぜでしょうか。神による世界の創造を現代人はなぜ信じないのでしょうか。それはそのように考えることを妨げる現実を知っているからです。神が世界と人間の創造者であり、世界と人間は被造物であると認めてしまうことは、自分の知性を放棄することになると考えるのです。知性を犠牲にする宗教を現代人は信用しません。この世界に、もろもろの悪があるのはなぜなのか。神の創られた世界に生きる人間に、なぜ死があり、苦難があり、不条理な現実があるのか。この問いを避け、これらの問題に真摯に立ち向かわない思想や信仰を肯定することは、わたしたちには難しいのです。それなら、神が神らしくあるならば、まるで悪魔が支配しているような出来事がなぜ現実に起こるのか。なぜ文明社会であるはずの20世紀に600万人の大量虐殺(ホロコースト)が起こったのか、21世紀になってもジェノサイド(民族、人種集団を計画的に破壊する殺害行為)が起こり、軍事力による侵略戦争が起こっている現実をどのように説明するのか。核兵器の悲劇はすでに広島と長崎で現実の出来事になっているのに、核戦争の危機的状況は緊迫しているのです。ある日突然、日常生活を奪われた「難民(refugees)」と呼ばれる人々が4,160万人も今、地上にいるのです。それでも聖書は、この世界は6日で創られ7日目に完成し平和を迎えることになると、何を根拠に主張するのか。人間個人でいえば、いつ宣告を受けることになるのかもわからない致命的病名、日々老化し衰えていく肉体、そして必ず迎える最後の一日、このような地上の苦しみを生きねばならぬ理由はどこにあるのでしょうか。
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心ある者、真摯に考える者たちは、「この世界にどうして苦難があるのか」という問いを決して放棄しません。神の創造した世界にどうして苦難があるのか。不合理な苦しみを人間はなぜ体験しなければならないのか。神の全能の力と人間を苦しめる理不尽な苦難とが矛盾してしまうのです。聖書の中の強力な肯定に対抗して、目の前に展開する悪の力をキリスト教信仰はどのように説明するのか、この問いから逃げ出すことはできないのです。
あらゆる宗教、哲学、思想はこの問題と取り組んできました。そして、最後にたどり着く説明の方法があります。ひと言で表現すれば「因果応報」です。原因と結果から説明するのです。人間が苦しむとき、その苦難には原因がある。その人間が犯した悪、罪が必ずあり、その人の悪と罪に対する罰として苦難を受けねばならないという説明です。その人自身に悪と罪が見つけにくい場合は、その人の「祖先」にまで遡ります。例えば先祖の供養をしていないから苦難がやってきたという説明です。因果応報は、優れた理論です。「義人は祝福され、悪人は刑罰を受ける」という論理は、苦難のほとんどを説明できる説明装置なのです。ところが、因果応報の説明からはみ出してしまう現実がわたしたちの目の前に展開されています。義人が不幸になり、悪人が富み栄える実態があり、悪人ではなく、むしろ義人である者が、なぜか重い刑罰を受けねばならないのか。いわゆる宗教の論理が破綻した地点に立たされるのです。この宗教の論理が破綻した地点こそ、聖書が語り始める地点です。
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神の創造した世界に、なぜ苦難があるのかという問題に最初から取り組んだ人々がいました。それが神の民イスラエルの人々です。そもそもエジプトで奴隷として苦役を負わされ、耐えられないという叫びからエジプトを脱出した人々です。人々は「苦難の問題」を問い続けたのです。エジプト脱出後も苦難は続きました。40年間もの荒れ野での難民生活、そこで「苦難」についての民族的規模の学びがありました。それは「イスラエルの苦難」は、神に対する背信によるものであるという理解です。苦難はこのことを教え、裁きは悔い改めさせるためにあると考えるようになります。刑罰的苦難があるのは、罪を犯した背信行為に対する神による教育と訓練であると受け止めるようになります。次第に神に背く「罪」と、人間の責任とは何かという問いが深まっていきます。苦難の問題は、神に対する人間の責任という角度で深められていきました。人間の苦難を神との関係で問い続け、この問題を深めていきましたので、苦難の原因を、人間の不完全さや欠点に求めるという考え方に振り回されることがなくなりました。「〇〇〇という問題や欠点があるから刑罰を受ける」という、人間を差別的に扱う見方は成立しなくなりました。ある特定の人が罰せられ、ある特定の人が苦難から解放されるという差別的な苦難からの解放は、聖書の人間観に合わないのです。そのことはイエス・キリストの言葉が、鮮明にしています。
「イエスはお答えになった。『行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。』」(マタイ福音書11章4-5節) 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11章28節)
苦難からの解放によって、ある人が解放され、ある人が解放されないという差別的解放という考え方が成り立たなくなりました。そして、苦難からの解放には責任としての罪からの解放が必要であり、それは終わりの日に実現すること、苦難と罪からの解放にはキリスト(メシア)が到来し神の力による解決が必要であり、それを待望する地点までこの問題を深めていきました。(関連聖書箇所:イザヤ書35章5節以下)
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地上における人間の苦難は、部分的には神への背信に対する神による行為として受けとめられていきます。苦難の根源に神の意志があるという考え方は、月並みな「神義論」(義なる神がいるのに義人がなぜ苦しむのかという問題)を突破してしまいます。地上の歴史のただ中のイスラエルの歩みにおいて神の祝福がすべて取り去られる悲劇が民族的規模で起こります。その悲劇的現実のただ中で、すべての人間の説明や論理が破綻する出来事が起こります。それが「バビロン捕囚の悲劇」です。紀元前586年、北イスラエル王国に続いて南ユダ王国の滅亡が起こります。ダビデ王への祝福の約束が、地上の王国では実現しないことがはっきり示されます。そこから神の民は、混沌が幾重にも重なり合う無秩序な世界を経験します。(関連聖書箇所:創世記1章2節、また列王記24章10~16節参照)
苦難と不条理の問題を突き詰めて行くと、「バビロン捕囚の悲劇」という歴史的事件にまでたどり着きます。それは神の民にとって歴史の中で歴史が崩壊し、世界が混沌の重なり合う無秩序な世界へと瓦解していく経験でした。その「バビロン捕囚」のただ中でもっとも崩壊したのは、人間のそのものでした。人間が内面から崩れていく、混沌の中に落ち込んでいくことを神の民は経験します。(詩篇137篇はその心象の詩です。)神の民イスラエルは、ここで完全に破綻と崩壊のただ中に放り込まれました。その混沌のただ中から新しい視野で世界をとらえ、全く新しい人間理解へと歩み出す者たちが現われました。それこそが「人は神の被造物であり、神の似姿に創られた」という人間理解です。混沌と破綻を知らない人間理解ではありません。神に見捨てられているとしか思えなかった究極の苦難を突き抜けた人間観です。そこから、苦難の問題の突き抜け方が変わりました。その一例が、ヨブ記の語る苦難へ向かう人間の姿です。
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ヨブ記の主人公ヨブは、命以外のすべてを失います。究極の苦難を体験した人間として描かれています。そして、苦難のただ中で主人公のヨブの言葉は次のように記されています。
ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」。このようなときにも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった。(ヨブ記1章20-22節)
ヨブはここで告白しています。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」。ヨブの口から出てきた言葉は、「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」という言葉です。この言葉を語っているヨブは、完全なる「無」を自覚しています。自分が無から創られた者である自覚です。自分が持っているもので、神から与えられなかったものなど何ひとつないという「無の自覚」です。それが「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう」という言葉です。私たちは、誰一人例外なく最後は平等に、そして確実に、私たちの身体は、赤く燃えて、しばらくすると白い骨と灰になるのです。「無の自覚」があっても、なくても、「無」という塵と灰に至る結末は平等にやって来ます。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう」というヨブの告白は、悲劇的結末を受け入れる言葉ではありません。むしろ、その逆です。「無の自覚」だけが、私たちを悲劇的結末から解放するのです。神により無から創られた人間が神のもとに帰ろうという言葉は、不思議にすべての囚われからわたしたちを解放する言葉です。この主人公ヨブの「無の自覚」は、ヨブ記の主題に対応しています。
「主はサタンに言われた。『お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている』。サタンは答えた。『ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。』」(ヨブ記1章8-9節)
「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。」とは、人間は利害関係抜きで純粋に神を信じることは可能か、というサタンの問題提起です。ここにサタンの人間理解があります。人間は利益なしに純粋に神を信じることができるのかというテーマを巡って神とサタンの争点が示されます。そしてヨブ記は、人は純粋に神を信じることができることをヨブの「無の自覚」を語る言葉で証しするのです。冒頭でヨブの基本的立場が明示されます。その後、来訪する友人たちの語る因果応報や教育的罪の理解、宗教的教理による苦難の説明が加わり、さらにヨブと主なる神との論争が記されていきます。そして、結論としてヨブは自己義認を放棄し、神を義とする立場を受け入れ、懺悔(ざんげ)する形でいわゆる「神義論」を放棄します。それは自分が神と人間の関係を観察する位置にいないことを認めることに由来しています。時空の中に置かれている人間は、時空を抜け出して、外から眺める「神義論」はそもそも不可能であることを認めるのです。
ヨブは、究極の苦難のただ中で、すべてを失い「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。」と告白します。理由もなく、値もなく、ただ純粋に信じるところに神への信頼があると証しします。そして、このヨブの神への信頼を可能にしているのは、ヨブに対する神の信頼が最初からあるというポイントです。人間の神への信頼は、神の人間への純粋な信頼に根拠をもつというヨブ記の主張は、人間に対するサタン的人間観やサタン的信仰理解を吹き飛ばしてしまいます。
理由もなく、値もなく、ただ純粋に信じる信頼をわたしたちに示してくださったお方が主イエス・キリストです。主イエス・キリストは、ただ純粋にわたしたちを信頼し、値なしに神の義を与えてくださるお方です。使徒パウロの言葉をお読みください。
「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者とによって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(ローマ3章21-24節)
使徒パウロはイエス・キリストの故に神に義とされることの中に、悪と罪からの確かな解放を見ています。地上の悪の問題も、人間が罪と悪の支配からどのように救出されるのかも、「キリストによって義とされる」ことによって実現することをはっきり次のように書いています。
「では、これらのことについてなんと言ったら良いだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。『わたしたちは、あなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている』と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしたちは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマの信徒への手紙8章31-39節)
これは苦難と悪に対する勝利宣言そのものではないでしょうか。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。・・・これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。」 わたしたちはイエス・キリストの名によってこの勝利の叫びの合唱に加わりたいと思います。アーメン