第2章 「神のかたち(似姿)」である人間
(聖書) 創世記1章26~27節 ・ フィリピの信徒への手紙 2章6~11節
神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。(創世記1章26~27節)
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。(フィリピの信徒への手紙2章6~11節)
聖書は「神と人間との関係」を次のように記します。
神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。(創世記1章27節)
ここには二つのことが書かれています。第一に、神は人を「自分のかたち」に似せて創られた。第二に、神が創造された「神のかたち」とは、「男と女」というかたちであった。第一に、神は人を「自分のかたち」に似せて創られた。ここで最初に<神と人間との関係>が確認されます。人間は神が創られた者である。創った神と創られた人間、すなわち創造者と被造物の関係です。ここで「神と人間の関係」がはっきり示されます。人間と神との間には、決定的な距離がある。神と人間の間には、超えられない断絶がある。人間は決して神になれないし、人間は神として祀られる神にはなれない。人間は決して神々の子孫ではない。ところが、人間は、超えられない限界を超えようとします。人間の肉体は滅びても魂は永遠の世界で生きることができるという主張があります。聖書は、人間も自然的世界も、神が創造されたと語ります。そして人間と自然的世界の関係を次のように記します。人間も自然的世界もともに神の被造物である。したがって、いかなる被造物も神ではない、神として拝まない。そして、神は人間に自然的世界を「治める」「統治する」ことを委託した。この世界の統治は人間の責任とされた。しかし、人間はこの世界の統治をせず、責任を放棄して世界を混乱させている。人間が自由を乱用して、責任を放棄している。人間は自分の存在が、被造物であることを認めようとしない。
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第一に神は人を「ご自分のかたち」に似せて創られた。人は、神が創られた者である。このことを確認しました。次に人は「神のかたち」すなわち「神の像(似姿)」に創られた と聖書は記します。「神のかたち」とは、どんな姿でしょうか。神は一人のお方です。その一人の神は、父なる神であり、子なるキリストであるお方です。神は、ご自身の中で、父なる神であり、同時に子なる神キリストです。神が「父なる神」であり「子なるキリスト」である、とはどういうことでしょうか。それはひと言でいえば。神は、自分で自分でない者になることがおできになる。すなわち神は、神である自分の外にでて、自分でない者、すなわち人間になることができることを意味しています。この重要な根本を、簡潔に表現してみます。
神は、一人であるのに、神ご自身の内部に、「父なる神としての自分」と「子なる神としての自分」が向き合っている 。「父なる神としての人格」と「子なる神としての人格」が、一つ(一体)になっている。
聖書の中に「神の愛」という言葉が登場します。「神は愛である」とは、キリストの使徒ヨハネの言葉です。ヨハネという弟子は、「神はどのような方か」を「愛(アガペー)」という言葉で証ししました。「愛(アガペー)」とは、人格的に向き合っている二つの人格が一つになる。私とあなたという二つの向き合う人格が一つになる。それが人格と人格との「交わり(アガペー)」です。ヨハネが「神は愛である」と言う意味は、神の性質(本性)が愛であるという話ではありません。「神は愛である」とヨハネが言うとき、神はどのような方であるのかを示そうとしています。神はこのようなお方である。すなわち、<父なる神としての人格>と<子なる神としての人格>が、一つになっているお方である。人格的に向き合っている二つの人格が一つになる。それが「愛(アガペー)の関係」です。そして、二つの人格すなわち<父なる神としての御自分>と<子なる神としての御自分>が、一人の神ご自身中で一つになっている。その人格と人格との関係を「交わり(コイノーニア)」といいます。「コイノーニア」とは「一体となる交わり」です。
神は一人のお方です。神は御自身の中に<父なる神としての人格>と<子なる神としての人格>が「一つとなる交わり(コイノーニア)」をお持ちのお方です。神は神御自身の中に互いに向き合っている人格と人格が一つとなる「交わり(コイノーニア)」をもっているのです。ですから、神御自身は、ご自分の中に「私とあなた」という「交わり」を持つお方です。この神ご自身の中にある「交わり」は「愛(アガペー)」、すなわち「二つの人格が一体となっている交わり(コイノーニア)」です。
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聖書は、まず「神のかたち」という言葉で「神がどのような方か」を示します。それを踏まえて「人間とは何ものか」を明らかにします。もう一度、創世記の言葉を読んでみます。
神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。(創世記1章27節)
この聖書の言葉は、次のことを示しています。人は「神のかたち」すなわち「神の似姿」として男と女に創られている。男と女の姿は、「神のかたち」「神ご自身の姿」に似ていると書かれています。どのような「かたち」「姿」でしょうか。男か、女か、という姿で存在するのが人間です。男と女は、相互に別れて、向かい合っている人格です。両者すなわち二つの人格は、一つの人間(アダム)になることを求めるように創造されているのです。二つの人格が向かい合っていると言う意味は、呼びかけると応える関係にあることを意味します。男と女は、分かれた人格として創られたが、一つとなることを求めるように「神のかたち」に創られていると聖書は記しています。
ところで、神は一人であるのに、神ご自身の内部に、「父なる神としての自分」と「子なる神としての自分」が向き合っている。「父なる神としての人格」と「子なる神としての人格」が、私とあなたという呼応関係にありながら一つになっている。神は一人でありながら、二つの人格が完全に一つであるお方である。これは「父なる神と子なる神の秘儀」をあらわしています。神は、一人のお方でありながら、ご自分である事を失わずに、自分でない者になることができる。これは「神の秘儀」を意味しています。神は父なる神としての人格を保持しながら、自分の外にでて人間となることがおできになるお方です。そのことをはっきり記している使徒パウロの言葉を引用します。
キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。(口語訳 ピリピ2章6~7節)
ここでパウロは「神のかたち」を示します。(新共同訳は「神の身分」と意訳しています)イエス・キリストは「神のかたち」であるお方です。神が、神の姿として僕のかたちをとり、人間の姿になられたのです。「神のかたち」において示されるのは、情緒的な愛ではありません。一人の神ご自身は二つの人格が一つとなっている愛(アガペー)の姿をしているのです。神には人間にならねばならぬ必然性はありません。ところが、神は全く自由な自発的御意志で、「神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。」のです。神は、人間のために御自身の中にある愛を放棄され、それを人間に向けられたのです。他者のために自分が自分であること放棄する「愛(アガペー)」がここにあります。「愛(アガペー)」とは本質的に自己犠牲、自己放棄を意味しているのです。この「愛(アガペー)」は、人となられた神イエス・キリストにおいて、人間に向けられます。コップ一杯の水、ひと切れのパン、それが相手にとって本当に必要であるならば、自分の命を犠牲にしてでも、それを与えたいと望み行動する。それが「愛(アガペー)」です。「神のかたちである者の姿」は「愛(アガペー)」そのものです。「神は愛(アガペー)である」のです。
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すべてに先立って、天地創造に先んじてまずあったのは「神の決意」です。それは被造物である人間を愛するという「神のアガペー」です。神の決意である「愛(アガペー)」の対象として人間は創造されたのです。それが「神のかたち」すなわち神の像(似姿)である人間です。ですから人間は、神に愛され、それに応えて神を愛する方法で、神と呼応関係の姿になり、隣人と相互の愛、隣人愛に生きるように創られているのです。代表的な「愛アガペー」を教える聖書の御言葉を読んでみます。
イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタイによる福音書22章37~40節)
ここで「愛アガペー」のすべてが語られています。もしそれが正しく理解されたならば「アガペー」を「隣人愛」という言葉に置き換えてもよいと思います。わたしたちは「隣人愛とは何か」を説明できるでしょうか。聖書とは無縁の人道的愛が隣人愛として多く語られます。隣人愛を人道的な人間愛に置き換えてしまう事例も多くみかけられます。次のような理解は、誤解です。隣人愛とは自分を愛するように隣人を愛することだ。それは誰でも自分の中に自分を愛する自己愛がある。隣人愛とは自己愛もって隣人を愛することだ。ここからは自己犠牲は生まれません。自己愛の延長線を隣人にまで拡大しただけです。しかし「自分を愛するように隣人を愛する」と言ったとき、自分と隣人の関係が「一体」であったならどうでしょうか。二人が一体であるとしたら、隣人とは自分のそのものです。自分を愛することと隣人を愛することは区別できないことになります。主イエス・キリストが人間を隣人として愛してくださるとき、それは自己愛の延長や拡大によって愛の対象とされたのではないのです。「神は愛である」という意味は、神の本性は愛に満ちた方であるという意味にとどまりません。神は愛であるがゆえに神である御自身をすてて人間になってしまわれたのです。「神は愛である」という言葉には、神が人となられた受肉、罪の代価を支払われた十字架の御業があらわされているのです。主イエス・キリストの姿と御わざがアガペーである「隣人愛」そのものです。そして、この隣人愛の根源は、父なる神と子なる神が一体である一人の神であり、神は神ご自身の中に交わりを持つお方であることにあります。
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神の像(かたち)とは、神ご自身の姿です。神は、神ご自身が、神ご自身の内部に、父と子の交わりを持っているのです。「父と子の交わり」は、神ご自身の内部にあるだけでなく、神はご自分の外にでて、人間を愛する。それが「神の姿」のです。神の決意は、神ご自身決意を「人間を愛する神の姿」として実行に移されました。それがイエス・キリストの姿です。ですから、イエス・キリストは 神の姿であり、神に創られた人間の姿なのです。「神ご自身の決意」それは、聖書において「神は言われた」という言葉で表現されます。神は、その決意を時間の創造として開始されます。そこから聖書は書き始められています。創世記第一章です。そして、神は時間の中で人間を創造し、神は人間という他者と共にある神となられるのです。神は御自身の「かたち(似姿)」である人間を創造されました。それは御自身の中にある人格と人格とが一つになる「愛(アガペー)」を、ご自分と人間との間において実現することであり、さらに人間と人間との間において実現することです。それが、永遠の昔に、すべてに先んじてあった「神のアガペーの決意」であったのです。これこそが聖書が証しする神であり、イエス・キリストというお方をかたる聖書の言葉です。
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神ご自身の中に、そのような「素晴らしき一体化」が実現している。それはよいとしても人間と人間の間に、理想的交わり、自己犠牲的愛の関係が果たして実現が可能なのか、という問いが起こります。そこで改めて、人間が神のかたちに創られたという聖書の言葉を思い起こします。イエス・キリストは、私たちのために十字架の犠牲によって隣人となって「アガペーとしての愛」を教えてくださいました。
イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。(ヨハネの手紙一 3章16節)
人間のアガペーの交わりのためには、キリストの犠牲によって示されたアガペーが必要なのです。それはイエス・キリストにおいて示されています。イエス・キリストという存在、イエス・キリストの言葉と御業(十字架と復活)によって人間が人間として回復される。聖書の一貫した主張です。
御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。(ヘブル人への手紙1章3節)アーメン