「 信仰者の心の皮 」 第2章17~29節
山口隆康
天を引き裂くような雷嗚のとどろきを想像してみてください。今回のローマ人への手紙の御言葉は、私たちの心を引き裂くような鋭さをもって私たちに迫ってきます。わたしたちは、心の衿をただす思いで御言葉の前に自分を置きます。
この手紙の著者パウロは「あなたは」(17節)と私たちに向かって名ざしで語り出します。その糾弾の言葉は、「ユダヤ人であるあなた」に向けられています。しかし、すぐに気づくのは、この言葉は「キリスト者である私」に向けられていることです。あなたは自分で、自分をキリスト者と自覚し、聖書に安んじている。聖書の言葉の上にあぐらをかいて、ここだけがわたしの休息の場所だと言っている。しかし「あなたは律法(聖書)を誇りとしながら、律法(聖書)を破って神を侮っている」(23節)これがパウロの糾弾の言葉です。
ここでパウロが取り上げている問題は、信仰者の聖書の読み方です。神をみくびり、神を侮っているような聖書の読み方が問題にされています。聖書も律法も、字面を読むのは簡単です。それでは聖書を読んだことにならないのです。
パウロの指摘するのは、私たちキリスト者の聖書の読み方です。聖書の言葉と自分の生き様との関係が、あなたの場合どうなっているのか。これが御言葉の問いかける第一の問題です。そこから更に第二の問題に進みます。「あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです。」(25節)とあります。
「割礼」の問題というと、私たちに何の縁もないような気になります。割礼は、身体に決して消えないように刻みつけられた傷、神の民である消されざるしるしです。私たちは「割礼」を「洗礼」と置き換えてみるとこの問題を理解することができます。ユダヤ人は身体の割礼の傷、そのしるしを見るたびに、ああ、わたしは神に選ばれ、救いにあずかった人間とされていると考えました。割礼の傷は、自分が何者であるか教えるのです。ですから、この「消されざるしるし」は、ユダヤ人にとって「救いのしるし」でした。キリスト者にとっての「救いのしるし」、それが「新しい割礼」すなわち「洗礼」です。ところが私たちはすぐに次のように考えてしまうのです。自分は聖書に照らして、その教えのようにはとても生きていない。そんな私でも救いのしるしである洗礼が与えられている。これこそ、私がすがる救いの根拠だ。そのようにして「洗礼」という救いのしるしの上に安住しようとするのです。ところが、わたしたちのこのような考え方を、パウロはハンマーで激しく打ちたたくようにして、崩してしまいます。(25~29節)
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主イエスは律法について語られました。殺すなという戒めは、心の中で、心の深奥で、憎しみ、軽蔑という仕方で実行される。姦淫も、心の中で企てられ、心の中で実行されている。ユダヤ人の受ける割礼も、もともと心の中に施されたものだ、とパウロは申します。そして重要なことは、文字によらず、霊による心の割礼こそ割礼であると断言します。2章の28~29節の部分で明確に語られるのは「霊による心の割礼」です。「心の割礼」とは何でしょうか。心の中に神が割礼を施されることです。これは預言者エレミヤの言葉が下敷きになっています。(エレミヤ書4章4節参照)預言者エレミヤは、自分で自分の鈍い心の前の皮を切り取り、心に傷をつけよ、と勧めたのです。パウロは預言者の言葉を受けとめつつ、さらにわたしたちの現実に踏みこんで語りかけます。自分で自分の鈍さを取り去れない。自分で自分の心に傷をつけられない、それが私たちでしょう。その私たちの心に、神の霊が、消されざる救いの傷跡を刻印してくださる。それが心にほどこされる割礼であるとパウロは記しています。
パウロが示そうとするのは、外見上の信仰者ではなく、隠れた内面の信仰者、心に割礼を施されたキリスト者の姿です。人の誉れに生きることを断念し、ただ神から来る誉れに生きようとする信仰者。神の名が、私のことが理由で讃美される。私のことが原因となって神がほめ讃えられる。もし、そんなことが起こったらどんなに素晴らしいことでしょう。
信仰者の内面的課題について、パウロは私たちの現実の姿に切りこむように語ります。「あなたたちのせいで、神の名は、異邦人の中で汚されている」(24節)実態があるというのです。聖書を与えられ、神の言葉を聞いている私たちが、神の顔に泥をぬるような生き方をしている現実がある。傲慢で頑固な私たちの姿を見て、神なき異邦人は何と言うか。神が選んだキリスト者とは、なんとお粗末な信仰者たちか。神を第一に生きるべき者たちが、自分のことを第一にしている。神を喜ばせることよりも自分を喜ばせること、人々の賞賛を得ることにいつも心が向いている。パウロに指摘されてみると、確かに神の名は、私たちが原因で汚されている現実があります。神なき者たちに、わたしたちのせいで神が軽蔑され、侮辱されている。その原因は紛れもなく私たちのようなキリスト者ではないか。
私たちのような神の誉れを踏みにじる者は、罪人として十字架上で罰せられても当然なのです。そこで神は、私たちのためにイエス・キリストを十字架につけてしまわれたのです。主イエス・キリストにおいて起こったことは驚くべきことです。人の知恵が決して思いつかなかった救いの手続きを神がとってくださったのです。神の名を汚す私たちの代わりに、神ご自身が人となって罪人の身代わりとなって死んでくださったのです。
私たちの鈍い心、それを包む心の皮が、ほんとうは悲しむべきキリストの死を悲しむことさえ不可能にしています。私たちの鈍い心に、心の割礼を施してくださるために、キリストは、まず御自身のすべてを私たちに与えつくされたのです。その命のすべて、最後の一滴までも流しつくされて、これが私の身体、これが私の命の血潮であると言って与えてくださるのです。私たちは、聖なる主の食卓において、繰り返し、繰り返し、聖なる霊によって心の割礼を施されます。自分が与えられている「洗礼」の恵みを、繰り返し主の食卓で教えられるのです。主イエス・キリストが現臨される主の食卓に連なるとき、人が与える誉れなどどうでもよくなるのです。誉れがあるとしたら神からのみ来ることを心深く受け止めるのです。「内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字でなく霊によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からでなく神から来るのです。」(29節)とパウロが言う通りです。神の霊によって心に割礼を受けた私たちは、地上の誉れでなく、神への望みに生きる幸いの中に置かれていることを知らされます。アーメン