「 放置された人間と神の審き 」 第1章24~32節
山口隆康
「もっとも大いなる手紙」、ローマの信徒への手紙はそう呼ばれるにふさわしい手紙です。第一章の後半は、ずっしりと重い言葉で人間の現実が示されます。明るい希望に満ちた現実ではありません。真っ暗な闇夜に、地の底から響いてくるような人間の叫びです。軽いはずの空気にさえ押しつぶされそうな重苦しい地上の現実が指摘されています。
パウロがこの手紙を書いたのは、一世紀中葉の古代ローマ帝国です。最高の文化と呼べるギリシア・ローマ文化。最強の帝国と呼べるローマ帝国。当時のローマ帝国の繫栄は、歴史上、ほかに類を見ない程に輝いていました。輝くばかりの精神文化と政治、経済、軍事的安定。この大ローマ帝国の中に生きる人間の姿はどうであったのでしょうか。
パウロは人間の現実を神の前で語ります。ごまかすことのできない人間のありのままの姿をパウロは見ています。(1章24、26、28節参照)
重要な鍵になる言葉が繰り返し登場します。神が「まかせられた」と繰り返されます。この「まかせられた(なすがままにさせた)」という言葉によって、パウロは神の前での人間の正体を鋭く描き出します。地上での人間の生活があるべき姿を見失ってしまい完全に混乱している。人間の生活は、全部が「逆さま」になっている。なんとも目をそむけたくなる逆転現象が起こっている。それだけではなく「神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えている」(1章25節)という実態を指摘します。25節には、神でないものを、「神だ、神」だといって拝んでいる姿が暴き出され、26、27節には男女関係の恥ずべき実態、性的混乱、人間と人間との関係で狂っている実態がありのままに指摘されます。表面的混乱ではありません。心と身体の深奥にまで混乱が浸透している人間の現実です。あるべき姿が見失われ、すべての人間がもはや癒し難いほどに病んでいる。深く病み、傷つき、しかも自分がおかしくなっていることに気づかなくなっている。
ここでパウロは、世の中と人間がおかしくなった本当の理由を語ります。
「彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。」(1章28節)
神は、彼らを無価値な思いに渡した。彼らがなすべきでない事をなすに任せられたというのです。28節は、パウロの言葉を次のようにも読むことができます。「彼らは、神を深い知識の中に持つことを正しいことと認めなかった。だから神は、人間を理性の判断に渡してしまった。」
人間の中の最も優れた部分、それが「理性」です。理性の力、理性の判断が一番正しいと考える人は多いのです。しかし人間は、人間の中の最善の力によっても、神を認め、正しいことを正しいとするに至らないのです。人間の理性の力そのものが病んでいるからです。理性は神を認めることを正しいとしないのです。パウロは、その理由を語ります。それは、神がそうされたからだ、神がなすがままに任せられたことがその理由だ、と言うのです。そして、神との関わりを失った人間の姿(1章29~32節)をはっきり語っています。
人間と人間の社会は、どうしようもなく傷つき病んでいます。それは自然に、いつの間にかそうなったというのでないのです。ほんとうの理由は、神が人間をなすがままに任せたからなのです。
パウロは、ここで「神の怒りとは何か」をわたしたちに解きほぐしてくれます。「神の怒り」、それは神が人間を放置されたことに現れている。神は人間をそのままに放置された。その結果、人間が自分の理性、自分の力で判断して、自分の力だけでやっていくようになった。まさに神は人間をなすがままに任せられたのです。この「神の放置」に「神の審き」「神の怒り」がよく表れている。放置された人間は、神なしにすべてをなし、自分の正しさという理性の判断が一番だと思っている。このような現実にまさに「神の怒り」が表れている。パウロは、このことに気づいて欲しい、と書いているのです。「どうしてこのことに気がつかないのか!」というパウロの声が聞こえてくるようです。
例をあげて考えてみましょう。子供にとって、何が一番幸いな状態でしょうか。親が一切口を出さない、放置しておくことが一番嬉しい状態でしょうか。
ある教育者が、自伝的文章で次のように書いていました。自分が少年時代、悪ガキで、もう少しでやくざがらみの暴走族に入って非行に走りそうになった。でも結局、非行に走りきれなかったのは、父と母が恐かったからだ、と書いていました。この人が、父と母が恐いと言う時、それは、本当に自分を愛して、本当に自分のことを心配してくれている者に対する恐さです。非行に走ろうとする子供には、親の愛と誠実さが一番恐いという話です。
それなら、その親が子供をなすがままに任せたらどうでしょうか。
「彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました」(28節、また24、26節も参照)
神を認めず、神なしで生きることを幸いと感じている人間の姿の中に、パウロは神の怒りのふるまいを見ているのです。神の怒りが向けられている「人間の闇のリスト」をパウロは数えあげます。
「あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です。」(1章29~31節)
パウロがここで挙げている「闇のリスト」は、闇の底から光を求める人間の叫び、救いを求める者の叫びだと言えます。人間は、人間の内に内在する最もよきものの力でも救われない。罪と死の力からの救いは、人間の力では不可能である事をほんとうは知っているのではないでしょうか。
バンヤン( John Bunyan1628-88 )の著作『天路歴程』(The Pilgrim’s Progres)の中で、主人公のクリスチャンは、神の言葉が聞こえてくると逃げ出します。身を隠すのです。神が恐いからです。それは神の言葉を聞く恐さです。本当に逃げ出したくなる。私たちは、神の前から逃げ出したくなります。そうだとしたら、私たちはもう、主なる神よ、助けてください、と祈り始める地点に立たされているのです。暗闇を知っている者は、光を祈り求めずにはいられないのです。私たちの主なる神はその祈りを必ず聞いてくださるお方です。アーメン