第1章 聖書は神の言葉か?
第2節 証言集である聖書
初代教会の礼拝の中で、キリストの使徒たちと弟子たちは、イエスがキリストであることを証言しました。初代教会の礼拝は、祈りとともに聖書の詩篇が歌われ、旧約聖書が読まれ、イエス・キリストの弟子たちの証言が直接語られたり、手紙や文書で文字にされた証言が読まれたりしたようです。もう少していねいに申しますと、主イエス・キリストが復活し、天に上げられ、弟子たちのもとから去った後、初代教会においては、口頭で証しする言葉のみが神の言葉であったのです。ですから「神の言葉」とは、初代教会においてはイエス・キリストを証言する口で語られる言葉であったのです。使徒たち、弟子たちはイエス・キリストを証言しました。その証言は「イエス・キリストの出来事」に限定されていました。使徒たちが語った「イエス・キリストの出来事」を整理して言えば、次の三つになります。①イエス・キリストが何を語られたか(語られた言葉)、②イエス・キリストが何をなされたか(行為としての言葉)、③イエス・キリストがどのような方であったか(人格としての言葉)の三形態です。主なる神が「神の言葉」を語られたという意味は、神はイエス・キリストとして御自身を啓き示されたことを意味するのです。それは単にイエス・キリストが地上で語られ言葉に限定されません。イエス・キリストの誕生(受肉)、十字架、復活、顕現、という一つ一つの出来事が、神がご自分を人間に啓き示す「神の言葉」なのです。聖書は、神が人間に語りかけるイエス・キリストの出来事を証言する証人たちの言葉です。ですから証人たちの語る言葉によって神の言葉であるイエス・キリストの出来事が伝えられます。そのような意味で聖書は神の言葉であるのです。最も初期の初代教会の段階では書物としての新約聖書はなく、使徒たち、弟子たちが語る証言のみでした。しかし、証人たちの語る言葉、すなわちイエス・キリストの出来事の証言が次第に書き留められ手紙や文書になっていきました。手紙や文書は、最初は回し読みされることが多かったようです。次第に書き写されました。そこから語られた証言である神の言葉が、文字化され、さらに文書化されていきました。その内容の中心はイエス・キリストの出来事であり、イエス・キリストの言葉と人格とその御業でした。そして次第に、イエス・キリストの誕生(受肉)、語られた言葉、なさった御業、十字架の出来事、復活と顕現の出来事の記録が整えられていきました。そうすることによって、教会が証しするキリストの証言は、新約聖書に記された証言内容から逸脱することがなくなりました。さらに証言から逸脱して語ることを防ぐために、教会会議で整えられました。信条や信仰告白が教会の中で位置を与えられ、聖書と信仰告白(信条)によって教会のキリスト証言が整えられていきました。
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このように聖書をキリストの出来事の証言としてとらえると、逐語霊感説やローマ・カトリック教会のような教会という名の人間による権威づけが、的外れであることが分かると思います。聖書の権威、すなわち聖書の信頼性は、聖書の中に記されている証言が信頼に足りるかどうかにかかっているからです。聖書の信頼性は証言される言葉自体にあります。そこから以下に述べる判断が重要になります。それは旧新約聖書六十六巻だけが特別に信頼できる理由はどこにあるのかという問題です。わたしたちのプロテスタント教会は六十六巻の書物だけで聖書は完結しているので、六十六巻の後に付け加える文書は必要ないとしています。そこでその意味をよく理解する必要があります。たとえば次のような事例を考えてみます。『ペテロによる福音書』という古代文書が実在することが知られています。AD2世紀の中頃に書かれた「偽名文書」だと言われています。使徒時代よりかなり後の時代の文書であるので 六十六巻には加えられることはありませんでした。そこで次のような応用問題を考えてみます。AD2世紀の中頃に書かれた『ペテロによる福音書』とは全く別のもう一つの『ペテロによる福音書』が、たとえばシナイの洞窟か、あるいはエジプトの砂漠の中から発見されたと仮定します。発見された「ペテロによる福音書」の成立年代は使徒時代であり、全文が発見されたと仮定します。その真偽が現代の科学的調査で確かめられ、使徒ペテロが語った証言である信憑性がたかかったとします。このような場合教会はどうするでしょうか。実は この問題は十六世紀の宗教改革の時に問題になりました。宗教改革者ルターは、正典の充足性(sufficientia)を認めることから「閉じられることなき聖書」を主張しました。このルターの考え方を今もわたしたちは受け入れています。ルターは聖書を幼児キリストが寝かせられている馬桶(飼い葉桶)に譬えました。聖書はイエス・キリストを証言しているが、イエス・キリストそのものを証言している最良の書物は、ヨハネによる福音書、ヨハネの手紙一、パウロの手紙、ペテロの手紙一であり、とくに新約聖書の中心はローマの信徒への手紙、ガラテヤの信徒への手紙、エフェソの信徒への手紙であるとルターは書いています。これに対してキリスト証言としては良質でないとして、ヤコブの手紙、ヘブライ人への手紙、ヨハネの黙示録をあげています。このように書物に価値評価を加えており、キリストそのものを証言している度合い、また「信仰義認」を明確にしているかという「規準」を「正典である聖書の内部」に持っているとしています。ローマの信徒への手紙やガラテヤの信徒への手紙を「幼児キリスト」にたとえるならば、ヤコブの手紙は馬桶(飼い葉桶)の「藁(わら)」に譬えられるとして、ルターが「ヤコブの手紙」を「藁の手紙」と呼んだことはよく知られています。ここからも聖書の権威を書物の証言内容から判断していることがよくわかります。したがって仮に、完全な「真正なるペテロによる福音書」が発見されたなら、そのキリスト証言が信頼できるかどうかが問題とされるでしょう。しかし、さらに考えられることは、それでも現在の聖書六十六巻の内容に不足分があることは考えにくいと言うことです。おそらく「真正なるペテロによる福音書」の証言は、最初の使徒たち、弟子たちの証言と一致することは確かです。ですから六十七巻目に加える必然性はないのです。キリストの出来事を証言する証言が一つ加わったとして、教会はペテロに感謝する事になると思います。
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「聖書は神の言葉である」と表現しましたが、より正確に言えば、書かれた証言としての聖書がそのままで神の言葉であるとは言えません。聖書がイエス・キリストの出来事の証言集であるならば、もともとこの証言集は、イエス・キリストの出来事を人間の口で証言したものでした。証言ですから人々に「語り掛ける証しの言葉」でした。聖書の言葉が書き留められたのは、イエス・キリストの出来事を、この呼びかけ、語り掛けによって証しするためだったのです。ですから聖書は、この出来事を人々に呼びかけ、語り掛ける証言を伝えるためにあるわけです。ですから証人が証言の言葉を語るために聖書があるとも言えるのです。ルターは、聖書はただ朗読されるだけでなく必ず説き明かされねばならないとして、礼拝では聖書朗読の直後に説教をするように書き残しています。(『ドイツ語ミサ』) 聖書は書物の文字そのものだけでは神の言葉ではなく、キリスト証言として朗読され説教されるときに「神の言葉になる」からです。聖書の言葉は人間の口によって証しされて神の言葉になると表現するとも言えます。この言葉は語る人の資格や力量に依存しない証言です。語られ伝えられるのは聖書の言葉です。聖書の言葉そのものが自分自らを伝えてくれるのです。わたしたちがキリストの出来事を証言するとき、聖霊なる神が語るべき言葉を与えてくださる、という意味は深いと思います。自分の言葉でない「他人の言葉」を伝える証人は証人とは言えません。「この書物を読めばイエスがキリストであることが分かります」と言って聖書を手渡しても福音は伝わりません。聖書は証言集ですから、証言する人自身の言葉が不可欠なのです。福音が伝えられるためには、聖書とそれを伝える証人が必要だからです。わたしたちは主イエス・キリストの証人へと召されています。その証人であるわたしたちに、聖書の言葉とキリストの弟子たちの証言集が手渡されています。聖書が語りかける言葉を読み、証人たちの言葉を聞き、聖書の言葉をしっかり受けとめ、わたしたちも証人として、イエス・キリストの出来事を語り出したいと思います。