これからの教会 3

 教会の存在根拠は、イエス・キリストの受肉と再臨の間に敷かれた「永遠の道」の上に置かれていることにあります。この「永遠の道」は終末までつづく「伝道の道」であり、この道の上におかれた教会は、この道を終末まで歩み続ける存在です。このように教会の存在理由が、終末論と福音伝道にあることを確認しますと、わたしたちの教会で起こっている「危機」は「伝道の危機」であるとともに「福音の危機」であるといわざるをえません。そして、「福音の危機」はとうぜん「教会の危機」になります。その意味で、わたしたちの教会は深刻な存立の危機の中にあります。わたしたちの教会の危機的状況は表面だけみても顕著です。日本国内におけるキリスト者人口の減少は進行中ですが、もはや止めようがありません。教会はどうのようにすれば消滅の危機を克服できるのでしょうか。長期的にみて22世紀の日本のキリスト教会はどうなっているのでしょうか。22世紀の日本で生き生きと伝道と教会形成に励んでいる教会があるとしたら、それはどのような教会でしょうか。

 「これからの教会」においては、22世紀に生き残って伝道と教会形成に励んでいる教会を求めることを目標として考察を進めます。しかし、22世紀にはこのような教会が生き残っていますという教会像をいきなり提示するのではありません。観念的に描き出される教会像は机上の空論にすぎないからです。地上に存在する「教会の姿・かたち」を描き出そうとする場合、あたかも天上のイデアの世界で描き出された教会を地上に移植するような思考の枠組みは歴史的教会のリアリティをとらえることはできません。同じように22世紀に生き残る教会の姿を宗教的理念や神学的理念から導き出そうとする試みも机上の空論の域を出ることができないでしょう。地上の教会は時間と空間の中に身体的実態を持つからです。この小論では、いきなり将来の「教会の姿・かたち」を提示するのではなく、まず教会のかたちを形成するための原理、すなわち「教会の姿・かたち」の形成原理を探求するする地点から考察を始めたいと思います。

 そもそも「教会のかたち」とはなんでしょうか。教会と言っても「教会」一般の話ではなく、日本における最大規模のプロテスタント教会である日本基督教団という固有名詞で呼ばれる教会に焦点をあてることにします。日本基督教団という教会の「姿・かたち」がここでのテーマです。さてここで、「教会の姿・かたち」を探求する場合、「教会のかたち」そのものをいきなり考察の対象にせずに、「教会のかたち」の形成原理をまず問題にします。日本基督教団という教会は、自己の内部に「教会のかたち」を形成するための形成原理を内包しているからです。「教会のかたち」の形成原理とは、「信仰告白」と「教憲(教会憲法)」です。そもそも「教会のかたち」とは何かという問いと、「教憲とは何か」と言う問いは、一つの問いの裏と表のように表裏一体の関係にあります。「教会のかたち」を探求するためには「教憲」が必要なのです。日本基督教団は、「教憲と会議制」を持つ教会です。一般的言い方を「教憲と会議制」に対して用いれば、「法の支配と議会主義」です。日本基督教団という教会は、教憲と信仰告白を持ち、会議制を教憲第4条に定めています。このことは何を意味するのかと言えば、「教会かたち」はアプリオリに想定した天上の教会を地上に写し取るという思考の枠組みを採用しないことを意味しています。教憲と信仰告白は先験的に与えられるものではなく、歴史的経験によって形成されていく「歴史的生産物」だからです。「教会のかたち」とは、教義学的思考によって案出されるものではなく、教会の歴史的経験によって形成されるというポイントが論考の大前提になります。そこでまず「教会のかたち」とは何かを論じることにします。

「教会のかたち」

 なぜ「教会のかたち」を求める必要があるのでしょうか。これまで使われてきた既成概念が通用しなくなり、新しい発想による新しい概念が必要になる場面があります。現在のキリスト教会はその場面に置かれています。これまで使用してきた「物差し(スケール)」では、キリスト教会の置かれた深刻な状況を十分に計測できないだけでなく、これからの教会の姿を描くことができなくなっています。「限界集落」という言葉があります。65歳以上の高齢者が人口の半数以上を占めていて、地域の共同活動ができなくなっている状態を指すようです。さらに高齢者の割合が増加し、人口そのものが激減したり、75歳以上の高齢者が半数以上になったりした集落を「超限界集落」と呼ぶようです。他にあまりにリアルすぎて避けたい譬えですが「絶滅危惧種」があります。近い将来、自然界から姿を消してしまう可能性が高い生物種のことを絶滅危惧種と呼ぶようですが、キリスト教会が地上から姿を消してしまう可能性を心配しなくてよい状態にするにはどうしたらよいでしょうか。急速に進行する少子高齢化社会の中で、キリスト教会は「限界集落」から「超限界集落」移行するのではないかという危機感を実感している教会人は少なくないと思います。まさに少子高齢化が急速に進む教会はどのようにしたら将来構想を描くことができるのでしょうか。教会の危機状況を一気に解決する特効薬を探すべきでしょうか。それとも教会の病状を診断し直して、新しい処方箋を求めるべきでしょうか。どの手段をとっても解決の糸口が見えないときにわたしたちはどうすればよいのでしょうか。 このような時に思い出す言葉があります。「根源に帰ることは前進することである。(In regress ad originem progressus est.)」古くからラテン語で言い伝えられてきた言葉です。わたしたちの教会は福音主義教会(プロテスタント教会)ですから、根源とは16世紀の宗教改革と理解してよいと思います。16世紀の宗教改革は、それまで使用されていたローマ・カトリック教会の「古い物差し」を捨てて「新しい物差し」を採用した出来事でした。新しい物差しによって「信仰義認」を明確にし、「聖書の権威」を回復し、教皇制に代えて「全信徒祭司制」による教会改革を進めました。わたしたちの教会は「宗教改革を知っている教会」です。「宗教改革」とは、16世紀に起こった一回限りの過去の出来事ではなく、繰り返しそこに立ち帰る根源を教えてくれる出来事です。福音主義教会(プロテスタント教会)とは、16世紀に新しく誕生した教会ではなく、宗教改革によって教会の本来の姿である初代教会に立ち帰った教会のことを指すのです。ですから「根源に帰る」という言葉には二重の意味があります。すなわち16世紀の宗教改革に立ち帰ると同時に、初代教会に立ち帰るという意味になります。初代教会の姿を伝えるのは「聖書」ですから、「根源に帰る」という言葉には「聖書に立ち帰る」という意味も含まれていることになります。教会とそこに繋がるキリスト者が新たな展望を必要とする時に「根源に帰ることは前進することである」という言葉を想起したいと思います。

 そこで新しい概念として「教会のかたち」を探り求めたいと思います。「教会のかたち」を新しい物差しとして設定することにより、これからの「教会の姿・かたち」を形成する試みとしたいと思います。「教会のかたち」を測る物差しとしてこれまで使われてきたのは、教会の政治的形態でした。監督政治、長老政治、会衆派政治などの教会内の統治機構や教会政治のあり方がそこでの主なテーマでした。「教会のかたち」という言葉を聞くと、即座に監督教会、長老教会、会衆派教会などの教派的教会制度論を論じることであると思い込む人がいるほどに「教会のかたち」と「教派的教会制度論」が結びつけられて論じられてきました。残念ながらこれまで長きにわたり論じられてきた「教派的教会論」は、現在教会が直面している困難な状況の中で教会形成論として生産的な成果を挙げることができない「解釈原理」にとどまっている現実があります。教会の政治的形態は、教会の権威の所在を構造化し、共同体の意思決定の仕組みを明確にして、教会共同体を統治する仕組みを示す概念ですが、どのように論じても、その延長線上に教会の将来像が形成されず、教会の地盤沈下・縮小現象を押しとどめることができない現実を認めざるを得ないからです。

 わたしたちは「新しい物差し」を求めたいと思います。作家の司馬遼太郎は「この国のかたち」という概念をもちいて日本の歴史・文化・社会の特性を洞察し、そこから将来に向かっての日本のあり方を論じました。これに着想を得て「教会のかたち」という概念を新たに形成して日本におけるこれからの教会のあり方を求めてみたいと思います。(つづく)