「21世紀伝道を進める会」は「伝道会」です。福音伝道を進めることを目的とするのが「伝道会」です。「伝道会」は必ず「聖書会(聖書を学ぶ会)」を必要とします。このホームページでは伝道を進めるために「21世紀伝道を進める会」のメンバーと共に聖書を読んでまいります。
第1章 聖書は神の言葉か?
第1節 神の言葉と人間の言葉
キリスト教信仰は、三つの言葉に集約することができます。「主・イエス・キリスト」です。この三つの語は、キリスト教信仰のすべてを表現しています。「イエス・キリスト」は人の名前でも固有名詞でもありません。「イエス」は「キリスト」であるという意味です。ナザレ村のイエスというお方が、人類の救世主(メシア)すなわちキリストであることを表現しています。「イエスはキリストである」と信じるところにキリスト教信仰は成立します。さらにイエス・キリストは、「わたしたちの主」です。教会は「主の名」によって語り、キリスト者は「主の名」によって祈ります。
聖書全巻もこの一点、「主・イエス・キリスト」にむかって証言します。旧約聖書は、これから到来する時間の中でキリストの到来を待ち望む人々の証言集です。新約聖書は、ナザレ村のイエスとして到来してくださったキリストが、どのような方か、何を語り、何をなさってくださったのか、それを想起して記録された証言集です。実は「聖書」は主イエス・キリストの証人たちの証言集なのです。証人たちが残した「証言集」ですから、聖書は「人の言葉」で書かれています。旧約聖書はヘブライ語で書かれ、ギリシア語に翻訳されて、古代ローマ帝国を中心に地中海世界に広く流布されました。新約聖書は最初から古代ローマ帝国の共通語ともいえるギリシア語(コイネーギリシア語)で書かれました。そして、古代ローマ帝国時代の地中海世界にたちまち広まりました。それを広めたのはキリスト者たちでした。キリスト者たちは、イエス・キリストの出来事を地の果てまで伝える使命があると自覚してそれを実行したのです。21世紀の現時点で、聖書は地上の約2500以上の言語(含分冊)に翻訳されています。
「聖書は神の言葉である」とはどのような意味でしょうか。主イエス・キリストは「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(申命記8章3節参照、マタイ福音書4章4節)と語っています。「神の口から出る言葉」とは何を意味しているのでしょうか。またイエス・キリストは聖書について次のように説明しています。「あなたたちは、聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」(ヨハネ福音書5章39節) これは律法の学者たちに向かっての説明です。聖書はイエス・キリストを証しする書物である。あるいはナザレ村のイエスはキリストであると証言していると主イエスは説明されたのです。そもそも、人間の言葉で書かれた人間の証言が、なぜ「神の言葉」といえるのでしょうか。
いったいなぜ「人の言葉」が「神の言葉」になるのでしょうか。この問いは、それほど単純ではありません。複雑な純度の高い説明を嫌って、水で薄めて単純に説明してしまう考え方があります。その一つは、教祖が神のお告げによって書いた「神がかりの言葉」を「神の言葉」とする方法です。要するに教祖の言葉なのですが、教祖である人間が筆(ペン)そのものになり、神の霊がその筆(ペン)を使って「神の言葉」を書くという説明です。日本では天理教や大本教などがすぐに頭に浮かびます。天理教では教祖が「神のやしろ」となり、完全な神憑り状態で筆を執って書いた「おふでさき」の著者は人間でなく神ということになっています。大本教ではさらに教祖の存在は希薄になり、「お筆先」は神が教祖の手を動かす「オートマティスム(自動書記)」で書かれたということになっています。いずれも人間の知性や理性の犠牲の上に成り立つという特徴を持っています。
ところがキリスト教の中にも、聖書を人間の証言集と認めない人々がいます。「逐語霊感説」の立場です。その立場では、旧約聖書の最初の五巻は、モーセが霊感を受けて一気に書いた書物ですし、パウロは霊感を受けた特別な人で誤謬のない神の言葉を書いた、ということになっています。人間は神の霊が用いる道具であって、聖書の著者は聖霊である神なので、聖書の文言は一語、一句、読点までも逐語的に霊感によって記されているので誤りがない。したがって聖書を批判することは許されないという立場です。この立場ですと(自然科学の)進化論は神を冒涜する間違った考えとされます。近代以降、聖書の文献学的研究がすすむと、それに反発してより頑なに「逐語霊感説」は「聖書無謬説」を主張するようになりました。要するに、聖書の文字そのものが神の言葉であり、誤りがない。文字そのものに神の力が宿るであるから、人間の入り込む余地はないという考え方です。
もう一つの水で薄められた聖書観があります。それはローマ・カトリック教会に代表される考え方です。聖書を聖書として編纂したのはローマ・カトリック教会であるから、聖書が神の言葉であると判定するのもローマ・カトリック教会であるという立場です。この場合、聖書が神の言葉であるか否かを決定する権限はローマ・カトリック教会が持っていることになります。教会が「神の言葉である」と言えば、神の言葉であることになります。教会の権威が「聖書の権威(聖書は神の言葉である)」を裏付けるという考え方です。わたしたちの教会は、逐語霊感説もローマ・カトリック教会も、「聖書そのもの」を理解していないと考えます。「聖書自身の自己主張」を聞いていないからです。「聖書の自己主張」を「聖書に聞く」のがわたしたちの教会の立場です。
それではわたしたちのプロテスタント教会は「聖書と神の言葉」との関係をどのように捉えているでしょうか。鍵になる言葉として「神の言葉」と「人の言葉」を考えてみます。聖書は人の言葉で書かれた神の言葉です。それは「人の言葉」であって同時に「神の言葉」です。両者が混合しているのではありません。そこで使われる言葉は地上で人間が語る人の言葉です。百パーセント、正真正銘の人の言葉です。その「正真正銘の人の言葉」が「正真正銘の神の言葉」になるのです。この考え方を、イエス・キリストに置き換えて考えてみてください。イエス・キリストは、「マコトニ人」であるお方です。同時に神が受肉されて人となられた「マコトニ神」であるお方です。イエス・キリストは、「マコトに神」であり「マコトニ人」であるお方です。イエス・キリストにおいては「神としての性質」と「人としての性質」は、両者が混合したり、変質したり、分離することない「マコトニ神・マコトニ人」であるお方です。イエス・キリストが(マコトニ)神であり(マコトニ)人であるという理解を教会は精密に考え、協議し、理解するようになり、間違いやすい考え方を注意深く斥けて来ました。
イエス・キリストには「人間としての面」と「神としての面」があるけれども、どちらかというと神の性質が強く人間としての性質は弱いのではないか、という考え方が繰り返し登場しました。またそれとは反対に、「人間としての性質」が強調され、「神としての性質」は弱いものにされる主張もたびたび登場します。例えばイエス・キリストの人間性は、人間としても他の人間とは別格であり突出して神に近い人間性であるけれど、神のそのものではない。十字架の上で死ぬのは人間性の部分であってマコトニ神である部分は死なない。したがって十字架の上での死は、人間の死とは別の死を死なれた。このようなイエス・キリストの神としての性質と人間としての性質をめぐっての主張が繰り返し出されました。古代教会は、世界教会会議を開き一つ一つ確認していきました。「古典信条(世界教会信条)」を定めて、イエス・キリストの神性と人性については「マコトニ神ニシテマコトニ人」であること確認しました。また父と子と聖霊に関する三位一体についても明確化しました。
それならこの重要な決定をどのようにして確認したのでしょうか。それはイエス・キリストの最初の弟子、キリストの使徒たちが、キリストから教えられた言葉と教えに照らして確認したのです。冒頭で聖書は証言集であるとのべました。復活のキリストから最初に教えられたのが使徒たちです。そのほかにも顕された復活の主にお会いした弟子たちが多くの証言を残しています。イエスがキリストであることは、使徒たちと最初の弟子たちの証言によって証しされたのです。ですからイエスがキリストであり、イエス・キリストはマコトニ神であるお方であり、マコトニ人であるお方であることを、イエス・キリスト御自身が使徒たち、弟子たちに証しされ、その証しの言葉が証言集としてまとめられたのです。