「わたしは福音を恥としない」 第1章1節~17節
山口隆康
一通の手紙が、一人の人の人生を変えてしまうことがあります。私たちは、古代ローマのキリスト者たちに届けられた一通の手紙を読み始めます。この手紙は、最初は迫害の只中で、息をひそめるようにして、キリスト者たちに読まれたのです。また歴史の中で、教会が生命をふきかえした時、いつでもこの手紙が読まれていました。
キリストの使徒パウロは思いの丈をつくして語ります。
「わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、すべて信じる者に、救いを得させる神の力である。神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、『信仰による義人は生きる』と書いてあるとおりである。」(1章16~17節・口語訳、以下引用は口語訳)
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パウロは宣言するように「私は福音を恥としない。」と語ります。それに続けて伝道者としての自覚を記します。
「わたしには、ギリシア人にも未開の人にも、賢い者にも無知な者にも、果たすべき責任がある。」(1章14節)
果たすべき責任とは、福音を伝える責任、救いを届ける責任です。私には切なる願いがある。それはローマにいるあなたがたに福音を伝えたい。そのためにローマに行きたい。どうしても福音を語り伝えずにいられない。なぜかというと、「私は福音を恥としない」からだ、とパウロは語りかけます。
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パウロは、この手紙を自己紹介と挨拶から書き始めています。
「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び別たれ、召されて使徒となったパウロから」(1章1節)「ローマにいる、神に愛され、召された聖徒一同へ。」(1章7節)
自己紹介のために「福音」という言葉を使っています。自分を紹介しようとすると福音を省略しては説明ができないと考えたのかもしれません。ローマの人々と自分とを結びつけている「福音」に言及する必要を感じたのでしょう。パウロの中では、「自己紹介」と「福音の紹介」は、同じ一つのことだったのかもしれません。パウロは挨拶の中で、自分を紹介し、自分を生かす福音に言及し、そこからローマの人々への思いを次のように語ります。
「わたしは、祈りのたびごとに、絶えずあなたがたを覚え、いつかは御旨にかなって道が開かれ、どうにかして、あなたがたの所に行けるようにと願っている。」(1章10節前半)「わたしは、あなた方に会うことを熱望している。」(1章11節前半)
パウロはローマの教会への思いと、ローマからイスパニアへと向かう伝道の志を語ります。パウロの内側から、燃えてくる伝道への思いが溢れ出てきたのだと思います。
「そこで、わたしとしての切なる願いは、ローマにいるあなたがたにも、福音を宣べ伝えることなのである。」(15節)なぜなら、「わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、すべて信じるものに、救いを得させる神の力である。」(16節)
福音とは力、神の力そのものだ。どうしてこの神の力である福音を恥じることができるだろうか。どうしてこの神の力、神の救いの力を宣べ伝えずにいられるだろうか。パウロはあふれ出る篤い思いをこのように語ります。
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「わたしは福音を恥としない」
この言葉は、初代教会に生きたキリスト者たちには、大切な言葉でした。パウロにとって、神の力を信じる事は、福音を恥じないことだと語りかけます。「恥としない」という言葉は、初代教会に生きたキリスト者たちの信仰を告白する言葉でした。この時代、とくにローマの人々は名誉を重んじました。その名誉の反対語が「恥」であったのです。名誉を重んじるローマ人のただ中で、「私は福音を恥としない」と語るとき、それは、私は人間的名誉でなく福音を第一にする、という告白であったのです。
初代教会において「恥としない」という告白がなぜ重んじられたのでしょうか。紀元一世紀のキリスト者たちをとりまく状況は厳しかったのです。キリスト者となったために失業し、友人や社会的地位を失い、ときには家族とも別れ、社会から追放されるような恥じ多き人生を強いられた者たちも多くいたのです。パウロは「私は福音を恥としない」と語り、それに続けてすべて信じる者に救いを得させる神の力を語ります。パウロは、福音は力だと語るのです。単なる力でない。神の力だと語るのです。パウロは別の箇所で「十字架の言は滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかるわたしたちには神の力である」(コリント人への第一の手紙1章18節)と書いています。
「福音を恥としない。」これは、救いの確かさを知った人の言葉です。神の力にふれた者の言葉です。どんなにみすぼらしく、惨めに見えても、この福音を捨てるわけにいかない。たとえ、軽べつされても、この生き方を変えるわけにいかない。そういう響きがここにあります。
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パウロの福音は、自分の救いにとどまりませんでした。自分が救われるなら、あの人も、この人でさえも救われる、という確信となったのです。
「それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、すべて信じる者に、救いを得させる神の力である。神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、『信仰による義人は生きる』と書いてあるとおりである。」(1章16節後半~17節)
パウロは、「神の力」について語る時、「神の義」から考えた人です。「神の義」が何かわかると、「神の救い」も「神の力」もよくわかるからです。「神の義」がわかるとは、神がどのような方かわかるのです。福音の中に啓示される。「神の義」は、イエス・キリストの十字架の出来事にはっきり現されている。神は、不義なる者、救いに値しない者を、義なる者、救いに価する者として取り扱ってくださる。それが、神は義なるお方であるという意味であると聖書が告げているとパウロは書いています。
十字架には、「神の義」が表れているのです。「神の真実」が人を生かすとパウロは語ります。それなら、「人は、神の真実によって生きる」とはどういう意味でしょうか。もともとこの言葉は、ハバクク書の言葉です。
「見よ、その魂の正しくない者は衰える。しかし義人はその信仰によって生きる。」(ハバクク書2章4節)
人生における危機的体験をくぐり抜けたとき明らかになることがあります。「生きている」ことの実感です。死をくぐり抜けるような経験をしてみると、生きていること、自分が生きていることの背後にある神の意志が見えてくるのです。危機を生きのびた者は、自力で生き延びたのではなく、何が自分を生きのびさせ、自分が生かされているのか、ということが分かるのです。
深刻な病から解放された経験は、「生きのびる」という言葉を実感させます。神の力、神の救いの力によって生きのびた人間は、生きていること自体に救いの力が浮き出してくるところがあります。それこそが、ハバククの言おうとすることです。パウロがハバククを引きながら、神の真実、神の義、神のなさり方が、私たち罪人を生きのびさせると語ります。ルターが「神の義」がわからずに苦しんだ話は有名です。ある時まで悪しき者を罰するのが神の義であると誤解していたのです。
「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、『信仰による義人は生きる』と書いてあるとおりである。」(1章17節)
「神の義」は、イエス・キリストの十字架の福音の中に啓示され、と書かれていることにパウロはあるとき目覚めるように気づくのです。神の義とは、不義なる者、自分のような罪人を、義なる者とみなして下さる。更に、義なる者へと変えて下さる。死罪に当たる者を生きのびさせてくださる。神の義とは、神の恵みのことだと気づいたのです。
「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかるわたしたちには、神の力である。」(コリント人への第一の手紙1章18節)
神の力は滅び行く者には愚かに見えるのです。イエス・キリストは、死者を救うために、この愚かさに生きられました。イエス・キリストは、私たちを救うために、十字架の恥を忍ばれたのです。
神を信じない罪がどれほど神の前に恥ずべき悲しむべき罪であるか、重々しい罪であるか、十字架を前にしてわたしたちは知るのです。そのような罪人であった私たちを、神が神の意志で救い上げてくださる。神の力とは「神の義認の力」です。主イエスを十字架につけた罪人を神は義人だと認めてしまう。信じぬいてくださる。ここに不条理を飲み込む赦しの力があります。もし福音を恥じることがあるとしたら、この神の力を恥じることになるのです。この神の福音、この神の力にふれた者は、確かに生き始めるのです。生かされていること自体に、救済があることに気づくのです。キリスト者とは、神の力によって生きのびた者たちです。義人は信仰によって、すなわち神の真実によって生かされるのです。 アーメン