「 逃れられぬ裁きからの救い 」 第2章1節~11節
山口隆康
聖書の世界にだけ存在する特別な意味の言葉がここに登場します。「神は人を分け隔てなさいません」(11節)この「分け隔てしない」という言葉は、キリストによる救いの根拠を表現しています。「神は人を分け隔てしない」ということが、キリストの救いの確実さを示しているのです。実は、この言葉を最初に読んだ時ピンときませんでした。神が公平で偏見をもっておられないのは当然だと思ったからです。しかし、聖書の文脈を読み進むうちに、話は単純でないことに気づかされました。パウロの言葉をひとつひとつ辿るうちにその中に引き込まれていきました。パウロは、ここで「神は、正しい審きをなさる」ことを強調しています。神は善を行う者と、悪を行なうすべての者に、公平でえこひいきのない正しい審きをなさる。パウロはその理由を丁寧に説明していきます。そして最後に、「神は人を分け隔てなさいません」(11節)と書いています。パウロの論法によれば、まず最初に神が偏見がない公平な方であるという話は「神の審き」と結びついています。神は公平な審きをなさる方であることを次のように語ります。「神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。」(2章2節)そして6節以下で、神の正しい審きが確認されていきます。パウロが集中して語るのは、「神の審き」がすべての人に及ぶこと、「キリストの救い」がすべての人に及ぶこと、この二つがどれほど分かち難く結びついているかを明確にすることです。
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そもそも「神の正しい審き」とは何でしょうか。文脈を読むと、すべて人をさばく人間とは誰か、それは神の審きを恐れず、神の審きを本気で考えていない者のことである。そういう人間だけが他人を裁くことを実行するというのです。ここには人間の根本的問題が指摘されています。根本的問題とは、「神の審き」を差し迫った重大問題として考えていない人間の実態です。人間にとってほんとうは重大問題であるのに、神に審かれることなど、最大の関心になっていないという実態が問題なのです。(2章3節参照)
わたしたちは、聖書を読み、真剣に祈りながら、どこかで「神の審き」のことは、いずれ考えることにしよう。神は正しい審きをなさる。そうだ、そのとおりだろうと認めながら、どこかで自分だけは、神の審きから逃れられると漠然と考えているところがあります。そのようなわたしたちに対してパウロは次のように語ります。
「神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう」(2章2~5節)
ここでパウロが問題にしているのは、「生活上の無神論者」の問題です。それは「思想上の無神論」というより、「生活上の無神論」です。人間が、わたしは神を信じないと言ったり、そういうことを考えたとしても、さして問題はありません。本人が頭の中で何を考えても、考えるだけなら他人に迷惑もかかりません。問題なのは、生活上の無神論です。神がいるなら許されないような生活行動をする人です。それをパウロは、「すべて人をさばく者よ」(1節)と呼んでいます。
神を信じたら絶対にできないことがある。それは、自分と相手を区別して、相手に裁きの鉄槌を下す。自分を棚に上げて、あなたは間違っていると、「私の正しさ」を主張することによって、相手の正しさを裁き判決を下す。自分が判決を下さないと、事柄が解決しないかのようにそうするのです。相手の人間を裁くことは、自分が神の審きを本当に信じているならできないことだ、とパウロは言うのです。
「このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか」(3節)
このように問いかけた後、つづけて、神なき者の生活の実態、生活上の無神論を鋭く分析して次のように記しています。「あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。」(4~5節)。言葉の上、頭の中では、神を認めているのです。しかし、最も重要なことを認めていない人間がいる。「神の憐れみが、悔い改めに導く」という重大な真理を認めていない。
それなら、「神の憐れみ」とは何でしょうか。「憐れみ」という言葉を、ある人は、「親心」と砕いて訳しました。親が子供の心をなんとか目ざめさせようとする親の心という意味です。神の憐れみとは、私たちが他人を裁いている醜い姿を、神がご覧になるとき、神のみ心がさばきへと動き出すの思いとどまらせている力のことです。神が本当の親心から、なすべき正しい審きを思いとどまられている。判決を引き延ばされている。執行猶予の日々が、私たちの毎日なのです。わたしたちは悔い改めへと心を向けるべき日々に、私たちは何をしているのでしょうか。
以前、ある教育評論家が、子供の親に勧めていることがありました。一日だけでいいから、自分と子供の会話を全部録音してごらんなさい。そして、一人でゆっくり録音を再生して自分の言葉を数えてごらんなさい。あなたが裁判官のように、子供に何回の判決を申し渡したか、朝起きてから寝るまでに、あなたの子供は何回被告席に座らされ、何回有罪判決を下されているか、子供の立場に身をおいて聞いてごらんなさい。その教育評論家は、更にこう問うのです。裁判官は判決を言うだけ、でもあなたは、それ以上の刑罰を子供に課してないか。
私たちの神は、御自分の正しさを語らずに別のことをされるのです。それをつぎのように語ります。
「神はおのおのの行いに従ってお報いになります。すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります。」(2章6~8節)
ここにはっきり右と左、善を行う者と悪を行なう人に区別されると記されています。
善とは、「栄光と誉れと不滅のもの」という朽ちることなき善。それは地上における価値でなく、永遠の世界の評価です。地上にいる間は、耐え忍ぶ生活、辛い我慢する生活。裁かれても、裁き返さない生活。そこで、神の審きを期待して、地上では忍耐に生きる。善を行なう生活とは、神の前で、神の目を重んじて生きる姿を指しています。悪を行なう生活とは、神なしに他人を攻撃し、裁き、突き崩す生活です。
ここに善と悪とがはっきり示されています。神が報いを与えられることを、私たちは真剣に思い浮かべたいと思います。それはどんな姿でしょうか。忍耐強く善を行い、栄光とほまれ、不滅のものを求める姿、神の国を求め、神を相手に生きる姿、ただ神にのみ目を向ける姿とはどんな姿でしょうか。反対に、神なき生活の中で、ひたすら人間を相手に生きる罪人の姿は、どんな生活の有様を映し出すのでしょうか。
十字架上のイエス・キリストのお姿に全てが現れています。神はすべての人を罪人として、全く公平に審かれるお方です。私たちは逃れようもなく、また何の言い訳もできぬ姿をしていることを、十字架の主の前に立つときに知らされます。罪人は、誰ひとりキリストなしに救われることはないのです。
「神は人を分け隔てなさいません」(11節)
神は、私たちを、死の滅びの中に捨てられた罪人であることを見抜かれています。すべての人が救われねばならぬ罪人であることを見抜いてくださっているのです。それゆえに、私たちのような罪人たちが救われる根拠が、この言葉にあります。「神は人を分け隔てなさいません」。キリストは、すべての罪人のために十字架につけられたのです。主イエス・キリストの十字架上のお姿には、一人も分け隔てされることなく、すべての罪人を御自分のものとされた神の憐れみが表れ出ています。
そうだとすると、神は、人を分け隔てなさらないが故に、罪人をもれなく救うための行動をとられたのです。それが十字架の死を引き受けてくださったキリストの御業です。神は慈愛と寛容と忍耐をもって、私たちが悔い改め、砕かれた心となって神に心を開くのを待っていてくださるのです。
私たちの教会には、この神の慈愛、この神の忍耐、神の期待が知らされているのです。これこそ最も私たちが大事にしたい宝物ではないでしょうか。これこそ本当の富、不滅のものではないでしょうか。私たちは神の国を待望しています。神の前に立つ日を待ち望んでいます。パウ口の次の言葉を感謝して受けとめましょう。
「すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。神は人を分け隔てなさいません。」(10~11節)アーメン