ロマン主義的言語観の問題
説教の行き詰まり問題を打開する扉を開ける前に、現在の伝道と説教が行き詰っている地点に踏みとどまって、問題の実態と原因をさらにはっきりさせておきたいと思います。そもそも「説教者の意図」の伝達を「説教」と考える「説教者中心主義」が長く教会を支配してきました。しかもこの説教者による支配構造は単純ではなく、説教者自身も自覚できない状態になっていました。それは教会では、「説教者中心」を「説教中心」と呼んでいたからです。「説教を中心にした教会形成」などという表現が教会用語としてしばしば使用されます。この場合「説教中心」という表現には「説教中心」と「説教者中心」の両者が混然一体となっています。なぜ混然一体となるかと言えば、「説教者の意図」と「説教の意図」は同じものであると考えられていたからです。実態としては説教者中心主義が支配してしまうために、説教者の意図から切り離された「説教が生成する言葉の世界」に注意が向けらなくなります。さらに「聴き手」も「説教者の意図」を「説教の意図」として聞き取るように指導されているので「説教が生成する言葉の世界」から遠ざかってしまうことになります。その結果、説教の言葉が生成する世界が失われてしまうのです。
「説教者の意図」と「説教」の混然一体化問題について筆者には次のような経験があります。1984年にハイデルベルク大学でルドルフ・ボーレン教授の助手として在外研究を始めて間もなくの頃のことです。ボーレン教授の一番弟子のゲルト・デーブス氏と二人で「説教分析」に関する研究を始めていました。あるときデーブス氏から日本の説教者の説教を分析してみようという提案がありました。そこで日本ではよく知られた牧師の説教を二人で分析しました。デーブス氏は「説教分析」の開拓者であり、すでに分析の達人でしたのですぐにその日本の説教者の説教の分析をすませ、私に意見を求めました。デーブス氏によれば、この説教は「典型的ブルトマン主義者」による説教であるという意見でした。私がこの説教者は日本では「バルト主義者」ということになっていると説明すると、デーブス氏はそれを面白いと言い出して、本人の自覚する神学的立場と説教に言語化された説教の神学の乖離という問題に議論が発展しました。そこからデーブス氏の提案でルドルフ・ブルトマンの説教集である『マールブルク説教集』を説教分析の対象にして共同研究をすることになりました。ブルトマンの説教とブルトマン神学の関係がどうなっているかについての研究は極めて興味深い結果になりました。『マールブルク説教集』の説教者は、ブルトマン神学の立場の神学者ではない、という結論に至ったからです。デーブス氏との共同研究は筆者の目を何度も開かせてくれる経験でした。「説教者の神学」と「説教の言葉が生成する神学」の乖離の問題は、「説教者の意図」と「説教の生成する神学」の乖離の問題に平行移動することができます。「説教者の意図」から「説教」を切り離し、説教に独立した位置を与えることにより「説教」を「聴き手」の観点から分析することが可能になることがより鮮明になりました。このように説教者と聴き手との間に起こっているコミュニケーションの問題の解明のために説教者の意図から切り離された説教の位置が確立することにより「説教」そのものを分析の対象にできることになったわけです。このように説教者から切り離された「説教」の独立した位置が確立することによってはじめて「説教分析」が可能になりました。筆者は「説教分析」に関する論文を1986年以降毎年2~3本のペースで発表し続けました。最初期の論文で、「分析素」という概念を考案し発表しました。この概念は説教を説教者の意図から分離し、独立した位置を与えられた説教を分析する作業に入るために分析の単位をどうするかという問題を解く必要から生まれた概念です。分析の単位は、語彙、文節、文、文章、段落という具合に分解していくことが可能です。しかし、説教言語の分析に欠かせないの「意味論」の視点からの分析単位の設定の問題がありました。意味を決定するのは「文脈」です。「文脈」は語彙、文節、文、文章、段落のいずれでも「文脈」とすることができます。しかし、説教における説教言語による意味の生成という問題を解くために、分析のための単位を定めることが重要な課題となりました。そこで言語論や構造主義、また修辞学などとの対話から何を基準にしたらよいかという分析のための基本単位の設定が重要な課題でした。そして結論として「基本分析素」という概念を創り、「文」を「基本分析素」とする分析理論を定めました。
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「説教者の意図」と「説教」の混然一体化問題は、日本の教会では「説教者中心主義」と強く結びついています。説教者による説教支配とでも呼べるこの現象はいつから始まったとは言えないくらい長期間つづいてきました。そして、その長期間、疑うことなく採用されてきた言語観があります。それは「言語は本質を表す」という言語観です。換言すると「言語の背後」にホントウの意味が隠されているという言語観と言っても同じです。この言語観に立つと「説教者」が理解している福音の本質を「聴衆」に伝えるのが説教であるという説教理解が生まれます。説教者は言語以前に存在する「福音の本質(真理)」を語ることを「説教の意図」として説教する。そこでは言葉は本質を表現する手段であり道具であるとみなされています。言語表現の背後にある言語以前に存在する福音の真理を説教するのが説教者の務めであると考えらえているのです。このような言語観においては、「真理」や「本質」が言語の背後に存在しているというロマン主義があります。キリスト教会は言語の背後に「真理」や「本質」があるというロマン主義的言語観に長く支配されてきました。
問題の所在は次の点にあります。言語以前に存在する「福音の本質(真理)」を説教するという説教理解が説教者の中にあるとします。すると「説教者の意図」と「説教そのもの」との分離ができない実態がそこから生まれてくるのです。「説教者の意図」=「説教の意図」という観念構造が強力であるために、説教の聴き手も説教を聴き、その中から説教者の意図を聞き取ることが説教の良い聴き手であるという観念構造の中に取り込まれてしまいます。この「観念構造」の束縛から説教を開放しませんと、説教において何が起こっているかを明らかにすることができません。なぜなら説教がなされるとき、説教者の意図がその説教を支配していないにもかかわらず、その説教を支配しているのは説教者の意図であるとみなされてしまうからです。この観念構造が固定化されて下敷きとして存在すると、問題の解決方法も見当違いになります。過日東京都内のある大学で開催された「伝道セミナー」に出席しました。そこで講師たちが異口同音に「伝道を進めるためには説教者が『宣教の愚かさ』に徹することである」と強調していました。説教者が愚か者になりきるという「説教者のスタンス(姿勢)」に改善策があるというわけです。ここでも「説教そのもの」に問題があるにもかかわらず問題そのものが考察の対象にされることがありませんでした。問題解決策を「説教者の姿勢」に求めようとしていることが明白でした。まさにヤーコブソンが指摘する「アパート」に踏み込むことをしないで、説教者の姿勢によって犯人を特定しようとしている姿が浮かび上がります。「説教者の意図」と「説教の意図」を分離する必然性について解きほぐす作業が重要であることがわかります。(つづく)