第3章 「罪人である人間」
(聖書) 創世記3章1~21節
「人間とは何者であるのか」。この問いに向かってフランスの修道士パスカルは「人間とは考える葦である」と書き残しました。パスカルは『瞑想録』の中で、水辺に生えている植物の葦を思い描きながら、人間とは何かを次のように書いています。
「人間は一茎の葦に過ぎない。自然のうちでもっとも弱いもの。しかしそれは考える葦である。人間を押しつぶすには全宇宙が武装するには及ばない。ひと吹きの蒸気、ひとしずくの水で人間を殺すには十分である。しかし、宇宙が押しつぶそうとも、人間は全宇宙よりもいっそう高貴であろう。なぜなら人間は自分が死ぬ存在であること、宇宙が人間を超えた存在である事を知っているが、宇宙はそれらを何ひとつ知らないからである。」(『瞑想録』より)
パスカルは「考える葦」という言葉で語り出します。人間だけが自分が何者であるかを考えることができる。自分が神の被造物であること、しかも自分の命が限りあることを知っている。パスカルが注目するのは、人間と他の被造物との間にある決定的違いです。人間だけが自分は神の被造物である事を考えることができる。人間だけが限りある命を生き、死んでいく存在であることを考える力がある。人間だけに与えられた一つの力、それは自分の限界を自覚し、自分が神の被造物であることを受け入れる力です。人間だけが、神が呼びかけに応える「考える葦である」ことを知っているのです。
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人間は「神のかたち」に創られました。「神のかたち」とは「神の似姿」です。神が呼びかける時、神の呼びかけに応えるように創造されたのが人間です。聖書は人間について語るときに、まず人間が神に造られた被造物であることから語り出します。それに続けて、聖書は一つの問題の前に人間を立たせます。それは「罪人である人間」の問題です。聖書が人間について語るとき、なぜ「罪の問題」から語るのでしょうか。ここに聖書の鋭い「人間理解」があります。しかも抽象的な哲学的人間論などにはない、聖書の透徹したリアリズムがあります。神に造られた人間とはいったい何者であるのか。聖書は、神の前に生きる人間の姿を真正面から語り始めます。創世記第3章は、そもそも「人間とは何者であるのか」を焦点としています。
創世記3章に書かれた人間理解が人間に受け止められ、記録されたのは、BC10世紀から9世紀のことでした。それまで古代エジプトを脱出した「十二の部族」は、荒れ野での四十年の難民生活の中で協力して「一つの社会」を造ってきました。それは四十年もの間、荒れ野で彷徨の旅を続けるための社会です。いわゆる「部族連合」と呼ばれる社会の仕組みです。しかし、ヨルダン川を越えて定住生活を続けていく中で、それが維持できなくなります。人間相互の並列的協力体制の仕組みでは、どうしてもその社会を護り切れない事態に直面します。それは武力による外敵の脅威です。そこでイスラエルの社会は、社会の仕組みを土台から変更することをしました。これまでの「十二部族連合社会」から、一人の王の支配を受け入れ、王によって統率される「王制社会」を選び取っていきます。人々は、それまで誰からも支配されず、誰にも隷属しない社会に生きていました。そこには神以外の絶対的権力者を認めない自由がありました。ところが神だけが支配する社会は、なぜか戦争に弱いのです。周辺の列強諸国に痛めつけられるのです。そこで一人の王が立てられます。それまで部族単位に営まれていた社会が、政治、経済、文化、軍事などすべての権力を一人の王に集中させます。一人の人間を王にする社会、それは社会全体を組み立て直す社会変革の時代です。地上世界で生き残るために、それまでの社会を取り壊して、もう一度ゼロから社会を組み立て直す時代が、創世記第3章の時代背景です。すべての土台はどこにあるのか。その根拠は確かなのか。すべてをとらえ直し、確かめ直す時代でした。それまで確かであると思っていた「宗教観」「人間観」「世界観」がもう一度、組み立て直されます。古い社会秩序の崩壊の中で、現実世界を直視し、人間を見つめます。わたしたちが読んでいる聖書は、崩壊と大きな転換を迎えるたびに繰り返し読み直されてきました。
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実は、創世記第3章を書き残した神の民が、現実世界や人間そのものを根源的に問い始めたのは、敗戦による社会の崩壊の時ではありませんでした。それとは逆に、ダビデ王による国家の統一、一人の王による政治経済の発展、軍事力の強化による国家の安定、神の民イスラエル史上、もっとも安定した社会が実現した時代に創世記第3章が書き残されました。部族連合社会が崩れて、ダビデ王によって表面的には古い社会秩序から新しい秩序への移行が成功したとき、聖書の民は立ち止まって自分たちを見つめ直したのです。
ダビデ王による政治的安定、神だけに服従し、いかなる人間の前にも跪かない社会から、神以外の絶対的権力者に跪き服従する社会への移行の中で、「人間とは何者か」「人間の生きる社会はこれでいいのか」、表面的安定の背後でもっと深い次元での社会の崩壊、人間の崩壊が起こっているのでないか。聖書の民は、なぜか王制による政治的安定期を社会全体が根底において崩壊していく時代としてとらえているのです。神への信頼とはそもそも何であったのかが問い直されます。そもそも人間とは何者であるのか。人間が人間を支配する社会があってよいのか。根源的問いが深められていきます。現代の私たちには考えられないほど冷静で、客観的な洞察が、人間について加えられます。私たちが今、読んでいる聖書は、そのような言葉です。
「人間とは何か」を問い詰めていって最後にたどり着いたのが、「人間の罪」の問題でした。一般社会では「罪」を問題にしない考え方が支配的です。たとえば人間を心と体で捉えて、人間性を心の自由(精神性)に見る考え方があります。そこでは「罪」は問題になりません。そこでは何かが欠けていること、すなわち「善の不足」が問題にされるだけです。心や精神の水準のみで人間を考えている人には、使徒パウロが魂の根底からうめくように発する言葉はほとんど理解できないと思います。
「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分の望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。・・・そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意思はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。・・・わたしは、なんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」(ローマ人への手紙第7章15~24節)
ここでパウロが鮮明に示しているのは、人間全体が罪の中にあることです。次のように書いています。「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」(ローマ人への手紙第7章19~20節)
人間の意志は罪の支配の下にあって「人間は罪を犯さないことができない(アウグスティヌス)」と言うのです。ここで示されているのは、罪が一人の人間を支配するだけでなく、すべての人間存在が「罪」に支配されていることです。ですから罪は、人間の犯した行為(現行罪)としてではなく、むしろ常に罪を犯す人間の性質(原罪)としてとらえられています。それでは、そもそも「罪」とはなんでしょうか。創世記第二章と第3章は簡潔に、そして誰にも分かるように記しています。それを別の言葉で説明し直すならば次のように表現できます。「罪」とは神が創ってくださった「神と人間」との「人格と人格」の信頼関係を壊すことです。信仰とは「神と人間との人格関係を結ぶこと」です。ですから「罪」とは「信仰」の反対語です。罪とは一人の人格である人間が「神に対して背を向ける」ことです。それなら「神に背を向ける」とはどういうことでしょうか。聖書は神話的表現を利用してその深層に切り込みます。まず、創世記第2章で、神と人間の関係を簡潔に表現します。
主なる神は人を連れてきて、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(創世記2章15~17節)
まず神と人間との信頼関係が示されます。「園のすべての木から取って食べなさい。」という自由が示されます。この全面的自由の中で人間が死なないための一つの条件がありました。「一本の木からは決して食べてはならない」という神の言葉を信じることでした。それは人格と人格の信頼関係の問題でした。創世記第3章は、神との関係を人間がどのように切断し解消していくかを説明していきます。誰とも信頼関係なしに生きる生き方を人間がどのように始めてしまうのかという説明です。人間はなぜ死に至る病を自分から選び取ってしまうのかという問題の解明でもあります。まず人間の中から悪魔的な心の動きが起こります。誘惑者である「蛇」は心の動きです。心の中の対話としてお聞きください。
誘惑者「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」人「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」誘惑者「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」人「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。」
人間が神への信頼を捨てていく有様が描かれています。「神の言葉」を信用していないのです。最初から嘘を言っている神は信頼できない。神話的手法で「神無き社会」と「神無き人間」が出現していく有様を簡潔に表現しています。神と人間の人格関係には信頼と服従がありました。しかし、神と人間の人格関係は、人間の側からの神への不信と不従順によって解消され、人間は神に背いていきます。とくに興味深いのは、次の言葉です。「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」(創世記3章5節)
神に背いたきっかけには、「神のようになろう」という動機があったという洞察が加えられています。これが「高慢と邪欲」の罪と名付けられてきた罪の形態です。「高慢の罪superbia」とは自己絶対化の罪です。神がいないのであれば、自分が神の位置につくという自己神格化が起こってしまうからです。「邪欲の罪concupiscentia」は、神が造られた世界は、本来、神のものであるのに、世界を自分のものとして、自分の自由にする、世界を私物化する貪欲の罪です。自然破壊、戦争犯罪、原子力災害の根底にあるのは、神がいないのだからすべてが許されるという「高慢と邪欲」という人間の罪の問題が指摘できます。
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聖書は「罪人である人間の姿」をどのように描いているでしょうか。
「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。」(創世記3章7節)
ここに一つの人間観が示されています。「裸である人間」とはどのような姿を意味しているのでしょうか。人間相互では裸でも平気なのです。しかし「あなたは、どこにいるのか」という神の声を聞くと木陰に逃げ込んでしまいます。神の言葉に背いた結果、目が開けた。すると自分たちが裸であることを知ったと書かれています。人は初めから裸であったし、お互いの裸を見ていたのです。しかし、目が開けると、その時、自分が裸であることが分かったのです。ここで聖書は、互いの裸、互いの罪の姿を問題にする人間の眼が、どのように入り込んできたかを語っています。彼らは、神の声を聞くと木蔭に逃げ込んでいます。人間相互ならば裸の罪の姿をさらしても平気なのですが、神の前に裸で立つことのできぬ罪人の姿が語られます。「どこにいるのか」と人間を探し求めるのは神の言葉です。人間に向かって全面的自由を示し、死なないためのただ一つの約束を与えた神が、「どこにいるのか」と人間を捜し求める神として聖書は記しています。人格と人格との関係の根底に信頼がある事を前提にして、人間を探し呼びかけ続ける神が鮮明に描き出されています。罪人となった人間は、それまで信頼関係の中で聴くときには喜ばしかった音を、なぜか自分を責める音として聞いています。12節以下は、みじめで悲惨な人間の姿があばかれています。神の前に責任を負おうとしない人の姿です。他者への責任転嫁を続ける醜さが明るみに出されます。他者への責任転嫁を突き詰めると必ず神にまで及ぶ、と語る聖書の洞察は鋭いと思います。結局神に責任があるという主張こそ、自分の罪を自分で一切負おうとしない人間の言葉と言えます。
この人間の堕罪物語の中心は「どこにいるのか」という神の言葉にあります。人格関係を解消し、神と絶縁し神なき世界に生きようとする人間を神は探し求めるのです。神が探すのは人間の所在(どこに隠れているか)ではありません。神は、所在はご存じなのです。「どこにいるのか」と神が呼びかけるのは、人格的信頼の回復の呼びかけです。聖書は最初から、「罪人である人間」に「どこにいるのか」と呼びかけ続ける神、人間を探し求める人格神を神として伝えているのです。
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主イエスは99匹でなく1匹を探す羊飼いとしてご自分を示されました。「どこにいるのか」と呼びかけ続ける神は、ついに地上世界に受肉され、マコトの人となられた神であるイエス・キリストの姿になられました。しかし、イエス・キリストの到来に先んじて、この創世記第3章には、悔い改め得ないものを悔い改める者として扱ってくださる神の意志がすでに表現されています。
「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。」(3章21節)
神は、裸である罪人の身体を覆う衣を作って着せられるのです。神の前に生きる罪人である人間の姿がはっきり語られます。人間は神の被造物であって、神から呼びかけられ、神の信頼に応えるように創られているのです。アーメン