「放置された人間と神の裁き」 2章12節~16節
山口隆康
わたしたちは漠然とした想いで日々を過ごしています。昨日と同じ今日、今日と同じ明日がつづくと考えています。そのような私たちに、御言葉は、全く異質なことを語ります。時間のただなかに「ある特別な一日」がある。それを「裁きの日」と御言葉は記しています。
「神がキリスト・イエスによって人々の隠れた事柄を裁かれるその日」(16節)「その日」が来ると言うのです。私たちの歩みは、この神の裁きの日に向かって進んでいる。ローマの信徒への手紙の第2章は、次のように始まります。
「だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです」(2章1節)
これにつづけて、神の裁きは徹底したものであるので、裁きにおいてすべての人間をまったくかたより見ることがないということを、「神は人を分け隔てなさいません」(2章1節)と確認します。
この手紙の著者パウロは、更に議論を深めます。神は、人間を徹底して公平に扱われることを更に踏み込んで明らかにします。誰でも、差別や不当に扱われるのは嫌だと思います。正しい判断に基づいて、公平な判断を望むと思います。人間が公平に扱われるということは、人間を人間として扱うということでしょう。神は、すべての人間を、徹底して人間として扱われるのです。ユダヤ人とそれ以外の異邦人もまた差別なしに、同じように裁かれるというのです。
「律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます」(12節)
何とも大胆なパウロの言葉です。さすが元律法学者として、律法に人生をかけたユダヤ人です。しかも、そこを突き抜けた人だけが語れる明快な言葉です。神の裁きの座においては、ユダヤ人も、ギリシヤ人もない。日本人も中国人もない。男も女もない。すべての人間が同じ基準で公平に裁かれる。
教会で聖書を読んでいる者が気づかされることがあります。聖書を「律法」として読む時、自分が「戒め」を満たせないし、律法を行うことによって合格点に達しない現実です。それなら、聖書などない方が楽ではないか、と言う人にパウロは次のように申します。
「すなわち、律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、たとい律法を持たなくても、彼らにとっては自分自身が律法なのである。彼らは律法の要求がその心にしるされていることを現し、そのことを彼らの良心も共にあかしをして、その判断が互にあるいは訴え、あるいは弁明し合うのである」(14~15節、口語訳)
神の裁きの座で、私は聖書も律法も「知らなかった。」もし知っていれば、そんなことはしなかった。このような言い訳は通用しないだろうと言うのです。あなたが「知らなかった」と言う時、良心が本当にそれを許すだろうか。「聖書を知らなかったからだ」と自分に言い聞かせても、納得しないもう一人の自分がいるのではないか。それは「違う」と言う自分がいるだろう。(15節参照)
パウロが曖昧にせず、明確に語るのは次のことです。律法に照らして、神が人間に対して責任を問われた時、「私は正しい」と言える人間はいないだろう。同じように照らすべき律法がなかったとしても、「私は正しい」と言える人もいないだろう。律法があってもなくても、神から責任を問われるのは同じではないか。聖書を知っていてもそうでなくても、人間に裁きの日は平等にやってくる。そして、神は公平に裁かれる。これは厳粛な事実である。パウロの福音は明快です。パウロは告げます。
「そして、これらのことは、わたしの福音によれば、神がキリスト・イエスによって人々の隠れた事がらをさばかれるその日に、明らかにされるであろう」(16節、口語訳)
パウロは、その日に何が明らかにされるかを語ります。それは、人々の目には隠されていたこと、人知れず心の中で企てられたこと、それらすべてが明るみに出されたらどうなるか。私の良心までもが私を訴えることになる。私が弁明しても、自分の良心まで私を助けるどころか、私を糾弾することになる、と語るのです。(15節参照)
神の前に立つ時、私は本当にみじめな姿になるのです。私の良心までも、私を訴え、私に不利な証言をすることになる。自分で自分の弁護もできない。一言の申し開きもできない。罪人の姿が明るみに出されてしまう。最後にやってくる終わりの日、すべての隠された私の罪があらわにされる日がくる。その日私たちはどのように裁かれるでしょうか。
パウロが語りたいのは最も重要な一点です。この「裁き」が、イエス・キリストなしで行われるのでない。まったくえこひいきのない厳しい裁きが行われる。私の良心すら自己弁護をやめてしまうだろう。その時、私たちは、イエス・キリストなしに裁きの座にいるのでない。その時、イエス・キリストが、私の弁護人として私の傍らに立ってくださる。自分で自分をやめてしまいたい、抹殺してしまいたいような裁かれるべき者の傍らにキリストがいてくださり、裁かれるべき私を、キリストが覆い隠して立ってくださる。その日に私たちは、はっきり知るのです。なぜイエス・キリストが十字架につけられねばならなかったか。なぜ罪なきお方が、罪と恥の一切を背負われて十字架上で死なれたのかを。
主イエス・キリストの十字架の出来事は、私の良心さえ、私の糾弾を始めるその日に、私の弁護を私に代わってしてくださるためであったのです。主イエス・キリストは、「私は罪人ではない」という言葉を十字架に架けられる裁きの場で一切語られませんでした。毛を切る者の前に黙す羊のように、罪人の罪を引き受けるお方として、沈黙を守られた理由がここで明らかになります。それは、この私を護ってくださるため、裁きの座で私たちを弁護するために、私たちの罪を引き受けられるためでした。わたしの心が私を見捨てる。しかも、地上にいる間は、それにすがるようにして生きてきたのが「私の良心」です。その良心まで、私を見限る。それが裁きの日におこるだろう。しかし、私たちの主は、この私を見捨てられない。なんたる矛盾でしょうか。なんたる不合理でしょうか。
しかし、これが「わたしの信じる福音」「わたしの福音」であるとパウロは言うのです。私が裁きの座に立つ支えは、この「わたしの福音」だけだと言うのです。それは、イエス・キリストの十字架の出来事だけが支えだということです。もっともらしい説明は必要ではないのです。信仰者が救いについてのうまい理屈を用意する必要など微塵もないのです。ただ私は信じている。ただイエスをキリストと信じている。救いのためにはそれだけで充分なのです。
「そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう」(16節)アーメン