ホームページ聖書会 第3回

第1章 聖書は神の言葉か?

第3節 聖書の言葉のかたち

 聖書は「イエス・キリストの出来事」の証言集です。聖書には弟子たちの証言が集められています。復活されたキリストは弟子たちに顕れて語りかけてくださいました。キリストにお会いした弟子たちは、復活のキリストの証人となりました。聖書はイエス・キリストに出会った者たちの証言です。ですから聖書の言葉は証人たちによる「証しする言葉」「語りかける証言」で記されています。聖書の言葉は証言ですから、「解説や説明の言葉」ではありません。実は、聖書が解説や説明によっては解きほぐせない理由がここにあります。聖書の言葉は、「論評や論証する言葉」ではありません。学術論文やニュース解説の言葉は「論評する言葉」です。聖書は出来事が起こったか否かを論証することをしていません。「論評し論証する言葉」と「出来事を証言する言葉」は同じでありません。聖書は「イエス・キリストの出来事」を証言する言葉です。ちょうど、裁判で証人が「ある事件」について「証言する」のに似ています。あるいは「証人が事件経緯を物語る」のに似ています。

 それでは「聖書の言葉」と「説教の言葉」との関係はどうなるのでしょうか。裁判の証人のように、「出来事」について証言しているのが聖書の言葉です。「説教」は、「この出来事」の「証言(証人の言葉)」を取り次ぐ言葉です。説教においても単なる「解説や説明の言葉」や「論評する言葉」では、証人たちの生き生きとした証言を伝えることができません。もっともらしい解説も、うがった解釈に基づく論評も「イエス・キリストの出来事」を証しすることはできないからです。
 説教学において「聖書の言葉」と「説教の言葉」の関係を精密に考える研究が20世紀後半から進みました。説教学は「証人の証言」を「説教する」、そのための言葉を探求し続けてきました。そして、たどり着いた地点があります。それは「聖書の言葉」を取り次ぐには、「聖書の言葉のかたち」と「説教の言葉のかたち」の間にある連続性や共通性が要求されるということです。そこで「言葉のかたち」が重要になります。証言の言葉を、証言として語るには、それを実現する固有な「言葉のかたち」が要求されるからです。そこで重要になるのは「聖書の言葉」が持っている固有で独特な「言葉のかたち」であり、説教は「聖書の言葉のかたち」に従うことが求められることです。これを簡単に言えば、喜びの心を伝えるのは「喜びの言葉のかたち」です。悲しみの心を伝えるのは「悲しみの言葉のかたち」です。福音を伝えようとするならば、「福音の言葉のかたち」が聖書から導き出されねばなりません。それでは聖書の固有なキリストを証言する言葉のかたちとはどのような言葉でしょうか。

 聖書の固有な「言葉のかたち」は、証人による「語りかける言葉(証言)」にあります。「語りかける言葉」は、実際に語りかけるという方法によってのみ伝えることができます。説教者とは「語りかける言葉」である聖書を聴いて、聴き手に語りかける証人なのです。このように聖書が「語りかける証しの言葉」で記されていることは、聖書の言葉を取り次ぐ説教者にとって重要な前提になります。それは説教者にとってだけでなく説教の聴き手にとっても重要な前提になります。このように聖書が「語りかける証しの言葉」で記されているということで、説教者もまた「語りかける証しの言葉」によって聖書を取り次ぐことが求められることになります。説教者は、聖書の証人たちと説教の聴き手との間に立たされます。説教者は聖書の証人たちから手渡された証言の言葉を聴衆に伝えるメッセンジャーの位置におかれることになります。聖書を朗読し、その言葉を証言する説教者は、証言者として聴き手に語りかけるのです。このようにていねいに筋道をたどるように考えますと、聖書自体の語りかける言葉のかたちが、説教者が語る言葉のかたちを決定することになります。実は、聖書の言葉を読み取る方法として、この「聖書の言葉のかたち(語りかける証言の言葉のかたち)」を読み取ることが説教者にはどうしても必要になります。真摯な説教者たちはこの課題と日夜苦闘を続けています。

 聖書が独特で固有な「語りかける言葉のかたち」を持っていることを述べました。聖書全巻がこの「語りかける言葉」のかたちを持っています。「語りかける言葉」は、いつでも「語り手である『わたし』」が「聴き手である『あなた』」に向かって語りかけるかたちを持っていると言えます。語りかけは、「わたし―あなた(たち)」の関係で成り立つ言葉です。聖書は「わたし」が「あなた(たち)」に証言する言葉なのです。ところが「わたし―あなた(たち)」の関係で成り立つ語りかける言葉が、聖書においては特別なかたちをしています。通常の日常生活において「わたし―あなた」の関係で言葉が語りかけられる場合、意味の伝達がとても重要です。意味不明の言葉は相手に伝わりません。通常の人間関係では、言葉によって知性、感情、意志が明瞭に相手に伝えられます。それでは聖書の場合はどうなるのでしょうか。そもそも神と人間の間に通じる言葉などあるのでしょうか。神が人間に御自身を伝える言葉が「イエス・キリストの出来事」であることは述べました。神の御意志を伝える「出来事」を人間に伝える言葉が、語りかける証言の言葉です。では「証言の言葉」は具体的にはどのような言葉になるのでしょうか。説教者はこの「証言の言葉のかたち」をどのように読み取り、聴き手にどのように取り継げばよいでしょうか。この課題を解きほぐすために代表的な典型を挙げてみたいと思います。

(例1)
 新約聖書のルカによる福音書の始めに、マリアへの「受胎告知」が記されています。

 六か月目に、天使ガブリエルは、・・・・・・彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」・・・・・「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。・・・・神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。(ルカによる福音書1章26~38節)

 ここでマリアは天使に語りかけられています。しかし、マリアは語りかけられた言葉を理解できません。もちろん納得もできない不可解な言葉がマリアに届けられるのです。すると天使が言います。「神にできないことは何一つない。」最後にマリアは次のように応答します。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(1章30節~38節参照)
 ここでマリアが応答した言葉 「お言葉どおり、この身に成りますように」この言葉を旧約聖書の言葉(ヘブライ語)に直すと「ヒネニー」というひと言になります。実はこの「ヒネニー」という言葉が、聖書の中で決定的な役割を果たしています。他の代表例を見てみます。

(例2)
 信仰の父アブラハムは、ある時いきなり次のように語りかけられます。

 これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。(創世記22章1~3節)

 アブラハムの「イサク奉献」の書き出しです。アブラハムがひとり子イサクを神に捧げる命令を受ける場面です。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、神は命じられた。神の呼びかけにアブラハムは、「はい」と応えます。この「はい」は「ヒネニー」というひと言です。「ここにおります」と口語訳聖書は翻訳しています。「わたしはあなたに従う準備ができています」と訳すこともできます。母マリアのように「あなたの言葉通りにします」とも訳せます。この「ヒネニー」というひと言にアブラハムの主なる神への忠実な服従の姿勢が表現されています。

(例3)
 次の事例はモーセです。モーセが出エジプトの指導者となる召命を与えられる場面です。

 モーセは、・・・神の山ホレブに来た。・・・・彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。モーセは言った。「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」
 主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」と答えると、神が言われた。・・・・・・「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。(出エジプト記3章1~5節参照)

 この時、モーセは殺人を犯して身を隠す逃亡犯でした。荒れ野の奥へ羊を追っていきホレブ山に来ます。そのとき、主なる神は燃える柴の中から彼を呼んで、「モーセよ、モーセよ」と言われます。彼は「はい(ヒネニー)」と答えます。

(例4)
 次に預言者サムエルの場合を見てみます。

 まだ神のともし火は消えておらず、サムエルは神の箱が安置された主の神殿に寝ていた。主はサムエルを呼ばれた。サムエルは、「ここにいます」と答えて、エリのもとに走って行き、「お呼びになったので参りました」と言った。しかし、エリが、「わたしは呼んでいない。戻っておやすみ」と言ったので、サムエルは戻って寝た。
 主は再びサムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとに行き、「お呼びになったので参りました」と言った。エリは、「わたしは呼んでいない。わが子よ、戻っておやすみ」と言った。サムエルはまだ主を知らなかったし、主の言葉はまだ彼に示されていなかった。主は三度サムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとに行き、「お呼びになったので参りました」と言った。エリは、少年を呼ばれたのは主であると悟り、サムエルに言った。「戻って寝なさい。もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい。」サムエルは戻って元の場所に寝た。
 主は来てそこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた。「サムエルよ。」サムエルは答えた。「どうぞお話しください。僕は聞いております。」(サムエル記13章1~10節参照)

 ここでも「ヒネニー」という言葉が登場します。「どうぞお話しください。僕は聞いております。」というサムエルの言葉です。ここで鮮明なのは、サムエルは誰から何を語りかけられているのかを理解していないということです。師匠のエリがサムエルに対して、主が語りかけられ、サムエル自身を宛先とした言葉であることを教えています。しかもエリは、事柄を教えているのでもなく、その意味を教えているのでもありません。その言葉はサムエルに向かってサムエルをめざして到達した言葉である事のみを教えているのです。

(例5)
 この言葉の仕組みは使徒パウロの場合には、さらに鮮明にされています。新約聖書の使徒言行録9章にはパウロの回心の場面が記されています。パウロはサムエルのように語りかけられます。

 ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。(使徒言行録9章3~9節)

 サムエルもパウロも、自分の名を呼ばれても誰から呼ばれているのかわからなかったのです。サムエルは幼子でしたので「ヒネニー」という言葉も、師匠のエリから教えられて応えています。パウロは、三日も、目が見えず飲食もできないほどのショックを受けました。アブラハムもモーセも、自分の名を呼ばれ、「ヒネニー」と言って従っています。
 これらの事例が示すことがあります。聖書の中で「語りかけられた者」は、主に語りかけられた言葉そのものを理解していません。そこでは「語りかけられた者」にとって語られた言葉の目的や意味の伝達などは決定的意味を持っていません。「語りかけられた者」にとってもっとも重要なのは、その言葉が語りかけている相手が自分であることです。主なる神から語りかけられた者が、自分に「語りかけられた言葉」に対して、「ヒネニー(はい、わたしがここにおります)」と応答したことが最も重要なポイントになっています。繰り返しますが、意味や伝達内容は決定的要素ではありません。パウロは相手を認識することもできず、「あなたはどなたですか」と問い返しています。サムエルは師匠のエリに呼ばれたと誤解しています。さらにエリは応答の言葉を用意できましたが、サムエルは応答の言葉も自分で用意できないのです。エリから口頭で言葉を与えられています。

 このように「ヒネニー」という言葉が、旧約聖書ではアブラハム、モーセ、サムエル、イザヤ、ダニエル等、また新約聖書でも、母マリア、使徒パウロにおいて重要な役割を果たします。この言葉が鮮明に示すのは、主なる神の語りかけは、まさに「語りかける宛先の明瞭な神の言葉」であるということです。主なる神の語りかける言葉であっても聴き手は理解できません。しかし、その語りかけられている言葉が、自分に向かって語られていることは間違いなく受け止められています。しかも神が語りかける言葉で重要なことは、聞き手が意味を理解することではなく、語りかけられている言葉が自分に向かって語られている点のみが聞き手にとって明瞭である事です。
 聖書の言葉を取り次ぐ説教においては、意味を解説する以前に重要なのは「その語りかけ」と「その言葉の宛先」なのです。聖書の言葉が自分宛のメッセージであると受け止めることができるのは、それが自分を宛先とする語りかけであるからなのです。説教の言葉は、語りかける宛先が明瞭であることによって初めて伝わるのです。

 生まれたばかりの赤子は、言葉を理解しません。しかし、自分を愛し、繰り返し語りかける親の言葉を聞き取るようになります。そこでは、意味内容を理解することなど大して意味を持たないのです。自分を愛し、自分を愛おしく思い、真心から自分に語りかけ届けられる言葉、語りかける言葉を間違いなく自分に届けられる言葉として受容するのです。その言葉が自分に到達したときに応答する言葉は、「ヒネニー」(「はい!」)という言葉以外ありません。聖書がわたしたちに語りかけるとき、そこで求められるわたしたちの応答の言葉は「はい、わたしはここにいます」というひと言に尽きるのです。使徒パウロはテサロニケの人々に、このことを伝える手紙を次のような言葉で書いています。

 「このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。」(テサロニケの信徒への手紙一 2章13節)