なぜ、福音を証しする言葉が力を失ってしまったのでしょうか。わたしたちキリスト者と教会は、これまでも福音を伝道してきましたし、今も福音を伝道したいと願い続けています。ところが福音の伝道において起こっている問題が、「教会のコトバ」と「この世のコトバ」の交換関係をめぐるコミュニケーションの問題です。教会が価値あるとして発信している福音がこの世の価値基準の枠外になってしまうのです。わたしたちはこの問題を解決せねばなりません。この問題は、伝道と説教が直面している根本問題です。この根本問題を遠くから眺めたり、批評している時間は私たちにはありません。なんとかして根本問題そのものに接近せねばならないからです。問題の究明のためには、前回述べましたように問題そのものに接近する方法に鍵があります。問題解決という犯人が潜んでいる建物は「コミュニケーションというアパート」なのですが、この「アパート」のどこに潜んでいるか、これまでの捜索方法では犯人を特定できないのです。そこで必要な捜索方法は、犯人が潜んでいる「アパート」の中の部屋に踏み込んで捜査する方法です。伝道と説教が直面している問題の根本原因を言語との関係において明らかにする必要があります。福音を伝える「語り手」とそれを聴く「聞き手」のあいだのコミュニケーションが成り立たなくなっている実態を冷静に分析し、客観的視点から解明する必要があります。
果たして「語り手」と「聞き手」の間に何がおこっているのでしょうか。ここで問題をより鮮明にとらえるためにフォーカスを絞って「説教が直面している問題」を論じてみたいと思います。説教が直面している問題と伝道が直面している問題は同じ問題だからです。そこでキリスト教会の礼拝で説教がなされる場面で、「語り手」と「聞き手」の間で起こっている問題に接近してみます。礼拝の中で説教がなされるとき、「説教者の意図」が語られ、「説教」には「説教者の意図」が表現されており、聴き手は「説教者の意図」を理解するという構造でコミュニケーションが成立していると考えられてきました。ローマン・ヤーコブソンの言う「アパート」の中に踏み込まずに、周辺調査と外部からの観察にもとづく捜査によれば、「説教者の意図」は「説教の意図」として聴き手に理解されていると結論付けられていたのです。したがって「説教を構成している言語」という「アパート」に犯人が潜んでいても、「アパート」に踏み込むことに何の意味も見いだせないわけです。
ところが「説教者の意図」→「言語化された説教」→「聴き手の受容」という道筋を、「アパート」に踏み込んで捜査してみると、そこで実際に起こっているコミュニケーションの実態が明らかになります。そこで顕著に浮かびあがるのは「説教者の意図」は、説教という言語行為を支配していない実態です。「聴き手」は「語り手である説教者」と同じ視点に立つことはできないし、説教者と同じように感じ、同じように理解できるわけではないという実態です。このようなコミュニケーションの実態は、「アパート」の中の犯人が潜んでいる部屋にまで踏み込むことによってはじめて明らかになる実態です。説教には「説教者の意図」を離れて「説教という言語行為」の中で意味を生成している実態があります。そこではっきり言えることは、「説教者は聴き手になれない」ことです。かつて「説教者の意図」が「説教の意図」であって、聴衆は「説教者の意図」を「説教の意図」として聞き取ることが求められていました。筆者が1980年代に説教学研究の成果を発表し始めたころ、キリスト教会から多くの講演の依頼がありました。そこでの依頼内容は「説教の聴き方」について講演してほしいという注文でした。その注文には前提とされている観念構造がありました。そして、その観念構造そのものが疑われることは決してありませんでした。そこでの講演者に対する注文は、「説教者の意図」を「説教の意図」として聞き取ることのできる「良い聴き手」になるにはどうしたらよいか、ということでした。このような注文がでてくる背景には、教会共同体が内包している「説教者」と「聴衆」との関係があるわけですが、そのような教会共同体の社会学的構造は別にしても、「説教の意図」は「説教者の意図」であり、聴衆の聞き取るべきは「説教者の意図」であるという観念構造がそこにあったといえます。実態とはいえない観念構造があり、それをもとにして「良い聴き手」となるための真摯な営みがなされてきた経緯があります。まさに「旧説教学」の時代の古典的聴衆論なのですが、いまでも「旧説教学」は消滅したわけではなく生き残っています。その証拠に現在(2026年)でも「旧説教学」の立場から書かれた『説教の聴き方』という著作が出版され、書評欄で教会にとって良い書物として紹介されていました。
筆者には「旧説教学」を前提として「よい聴き手」なるための倫理的教訓を話すことはできませんので、「良い聴き手」とは、説教者のコピーになることではないこと、説教には説教者の意図を超えて働く構造があること、そこから「説教」の聴き手は、説教者が語っている以上の福音を聞き取っていく実態があることを講演で話しました。そして「説教の聴衆」は、なされた説教の「増補版の著者」であること、その意味で「聞き手」は「第二の説教者」であるという講演をしてきました。
20世紀の後半、1971年以降の説教学においては説教者と説教が分離して考えることができるようになっています。そこからさらに「聴き手」に独立した位置が与えられました。この独立した聴き手の位置が確保されたときに、「説教者の意図」ではなく、「説教者の意図」から分離した「説教」そのものを分析する作業が可能になりました。そこから説教にかかわる諸問題に取り組む新しい説教学の取り組みが開始されました。とくに説教の行き詰まり現象や説教が抱える困難な課題に取り組む営みとして「説教分析」という説教学の分野が開拓されることになりました。このあたりの説教学の状況や説教学が取り組んでいる問題については、改めてていねいに紹介する予定です。
このように説教者と説教を分離して考えることができるようになってみると、そこで明らかになったのは、「説教者=聴き手」「聴き手=説教者」という図式は幻想であって「説教者は聴き手になれない」また「聞き手は説教者になれない」現実を受け入れざるをえないことです。それは説教者と聴き手が同じ意味世界を共有するという前提が失われている現実でもあります。「説教者が語り、聴き手がそれを理解する」という礼拝共同体を成立させている前提は、そもそも説教者が意図していたようには存在していなかったのです。しかし「説教者は聴き手になれない」また「聞き手は説教者になれない」という図式が成り立つ実態には、角度をかえてみると積極的な理由が見いだせます。それは説教には説教者の意図を超えて働く構造があると考えられることです。この説教が説教者の意図を超えて、説教者の意図とは別に、説教の言葉そのものが新しい意味を生成するという視点こそ、説教の行き詰まり問題を打開する入り口の扉なのです。(つづく)