「 神の怒りと救いの不思議 」 第1章17節~23節
山口隆康
手紙の著者パウロは、イエス・キリストがなぜ十字架に架けられねばならなかったのかを語ります。十字架の出来事が「人間の救い」のための出来事であることを鮮明にするためです。
「主イエス・キリストよ、あなたはわたしの義、わたしの救いです。そして、あなたはわたしの罪、わたしの滅びです。」
これは16世紀の宗教改革者マルティン・ルターの言葉です。ルターは十字架上のキリストの姿を繰り返し語りました。そのルターが十字架上のキリストに向かって、「あなたはわたしの罪、わたしの滅びです。」と告白したことは重要です。パウロの手紙は、ルターがなぜこのように告白したかを解きほぐしてくれます。
パウロは、まず「福音には神の義が啓示されています。」(第1章17節)と、この手紙の主題が「神の義」であることを示しました。つづけて「神は天から怒りを現されます。」(18節)と記し、神の義、神の救いの話は、ただちに「神の怒り」の話に結びつくと記します。神の義の話は、神の怒りと切り離して語れない、そこにパウロの確信があります。この手紙の第一章を繰り返し読みますと、パウロが「神の義」を解き明かすために「神の怒り」をなぜ語るのかが見えてきます。わたしたちは本音では「神の怒り」の話など聞きたくないのです。パウロはそのようなわたしたちの姿を次のように明らかにします。
「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。」(1章18節)
このように語り始めたパウロは、つづけて神の怒りのもとにあるわたしたちの現実を指摘しています。なぜわたしたちは「神の怒り」について真剣に考えないのでしょうか。「神が怒る」というのは低級な宗教だという話は知っています。古代社会や未開社会では、直ぐに怒る神が、素朴に信じられていた話も知っています。古代社会でなく21世紀の日本でも、大地震や大災害があると、これは「神の怒りだ」と被災者の心を逆なでするような宗教が、被災地に宣伝に来るそうです。わたしたちは、そのような話を聴くと、私たちの信じている神は怒ったりしないと単純に考えて、それで話をすませてしまうことはないでしょうか。パウロは、はっきりと「神の怒り」について語ります。そして「あらゆる不信心と不義」という言葉で怒りのもとにある人間の姿をとらえます。実は、神を本当には畏れず、本気で服従する気がない。それがわたしたちの正体だとパウロは語るのです。そのようなわたしたちの姿を神の前で語るとしたら神の怒りの中でしか語れないと言うのです。
しかし、神は人間を義としてくださるお方です。その罪人を救わず放置されない神が、同時に罪人に対して怒られるということはどういうことでしょうか。愛の神が怒るということは矛盾でないか。罪人を怒る神が、罪人を愛するというのも不合理ではないか。ここにはっきりさせねばならない問題があります。神の怒りと神の愛は本当に対立するものかどうかです。パウロが「神の怒りは、天から啓示される」と書いているとき、「神の義による赦し」の実現は「神の怒り」抜きにはないことを解き明かそうとしているのです。
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「神の義による赦し」と「神の怒り」という矛盾の中に十字架の出来事の秘密が潜んでいます。わたしたちは「神の怒り」と聞くと、神が腹をたてること位にしか考えないのです。それに対してパウロは、「神の怒りは、天から啓示される」と書いています。「天から」とは、「神御自身から」という意味です。神の前での人間は、神の怒りの下でうめいている。神をあざけり、ないがしろにしている。ところが神は、そういう人間を放っておけなかった。そういうわたしたちに「神の義」とは何かをはっきり示された。それがイエス・キリストの十字架の出来事なのです。神の怒りは十字架の出来事抜きには説明することができないのです。神は赦されざる者を放置できず、赦されざる罪人に対して怒りをはっきり示されたのです。その神の怒りを、イエス・キリストは引き受けられたのです。わたしたち罪人に代わって引き受けてくださったのです。わたしたちは、十字架上で苦しまれるイエス・キリストの姿の中に神の怒りのすさまじさをみるのです。神の怒りの対象である罪は処理されねばならないのです。それが罪人の救いなのです。ですからイエス・キリストの十字架の出来事には、神の怒り凄まじさが表れています。同時に、神の義すなわち神の救いの力が啓き示されています。赦されざる罪人を赦す神の力がキリストの十字架に現れています。
パウロは神の怒りが、「不義によって真理の働きを妨げる人間」に向けられると記しています。そこで問題にされているのは、神に対する人間の態度です。神に関わる真理、神による罪人の救いの事柄さえ、人間の力で囲い込み、人間の力で処理しようとするのが人間だというのです。神だけが自由にできる力を、人間の力で抑えこめると思い込んでいる人間の姿こそ、神が怒らずにいられない罪人の姿です。救いが自分の手の中あると言う人間は、救いを求めないからです。そのようなまさに「怒りの子」である罪人のためにイエス・キリストは十字架に架かられたのです。
「あなたはわたしの義です。そして、あなたはわたしの罪です。」
このように十字架のキリストに向かって告白したルターの言葉の意味は深いと思います。ルターは、神の怒りに苦しんだ人です。法律家になることをやめて、修道院に入る決意も「神の怒り」を真剣に受け止めたためにおこった決断でした。帰省した帰り道で雷雨に遭遇し、近くの大木に落雷があり、神への畏れのなかで修道士になる決心をしたのです。そして、修道院での生活はいかにして神の怒りから逃れられるかという問題に苦闘します。そしてその苦闘の中で、イエス・キリストの十字架に現された「神の救いの義」に目覚めるのです。
神の怒りと神の赦しが十字架に現されている。それを知らされたルターは、「神の怒り」を本当の意味で十字架の中に発見したのです。そこから神の怒りについて語るルターの言葉は、次のようなずっしりと重い言葉になりました。「神の怒りとは何か、実にわたしたち罪人には本当は分からないのではないか。それは、人間には秘められた不思議な神の御業である。」ルターは、神の怒りとは、人間の理解を超えている。しかし、不思議なことに、神の怒りによってもわたしたちは救われていると語っています。
もし、地上の生活でイエス・キリストを知らなかったら、人は何を根拠に生きていくのでしょう。神の義、十字架の福音を知った者は、キリストなしに生きられないことを知らされます。自分の人生からキリストの福音を切り離すと自分の人生の説明がつかなくなります。キリスト抜きに生きていくことは無意味だからです。
地上は罪と死の闇に囲まれています。わたしたちは地上が暗ければ暗いほど、イエス・キリストというお方から射してくる光をもっと求めたくなります。パウロは救いの光を見つめながら次のように記しています。
「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。」(1章20節)