教会にとって困難な状況が続くなかで、「教会の将来」について語る言葉を模索しています。展望を求めて探す言葉も、打開出来ない「困難な状況」を前にすると、たちまち生命力を失っていく現実を認めざるをえません。そのような行き詰まり状況の中で、わたしたちの教会の将来を考え、模索するための「新しい言葉」に出会いました。それは「キリスト教の教会は本質的に伝道共同体です」という言葉です。この言葉はエマニュエル・レヴィナス(Emmanuel Lévinas)著『困難な自由』の中に登場します。「キリスト教の教会は本質的に伝道共同体です」とレヴィナスが書いている意味を「私の言葉」で表現すると、だいたい次のような意味です。
ユダヤ教とキリスト教は「永遠」が「時間」の中に突入してきたときに歴史の中に出現した宗教である。地上に永遠が突入してきたこと、すなわち神の国が地上に突入してきたという出来事によって、「神の国の道」という一本の道がキリスト者に用意された。この一本の道はイエス・キリストの受肉と復活という出来事と再臨の間に架けられた道であり、「永遠の道」なのです。それゆえに、キリスト者はイエス・キリストが地上に来てくださった時から、再び到来してくださる再臨の時まで「この道」を歩みつづける。このキリスト者が歩みつづける「永遠の道」が「伝道の道」です。ですから「キリスト教の教会は本質的に伝道共同体なのです」この「伝道の道」は、「世界の内部の道」すなわち教会やキリスト者が自分の内側の持っているような道ではない。教会もキリスト者も「この道」の上に置かれている。「この道」は歴史の外にありながら、歴史のすべてを内包している道なのです。すなわち、「この道」は地上的世界の終わりから今を見通している道にほかなりません。
レヴィナスはその著作『困難な自由』の中で上記のように議論を展開しています。このレヴィナスの言葉を新鮮に受け止めた理由のひとつが、レヴィナスがユダヤ教徒であり、しかもただのユダヤ教徒でなくユダヤ共同体の知的リーダーとしてユダヤ教の本質を究めているタルムード教師であるからです。レヴィナスはユダヤ共同体とキリスト教共同体の違いをとらえて「キリスト教の教会は本質的に伝道共同体です」と教会の本質をとらえているのです。レヴィナスの言葉は、ユダヤ教の視点から教会をとらえています。レヴィナスの見抜いているのは、「教会とは何ものか」「教会はなぜ伝道するのか」についての明快な説明です。教会もキリスト者も、「この道」の上に置かれている。「この道」は歴史の外にありながら、歴史のすべてを内包している道である、とレヴィナスは洞察しています。教会もキリスト者も「この道」の上に置かれているとレヴィナスがいう意味を理解するならば、教会がまず地上世界に存在し、その地上における使命が伝道であるという理解は、思考の順序が間違っていることになります。教会の存在理由、存在根拠は、「この道の上に置かれている」ことにあるのです。そしてこの道は「伝道という道」なのです。教会は、「すでに」と「未だに」の間の中間時におかれた伝道共同体なのです。ですからキリスト者がキリストの再臨の時をめざして歩み続ける道が、「伝道という道」なのです。このような意味でレヴィナスは「キリスト教の教会は本質的に伝道共同体です」と指摘しているのです。教会がいつの間にか、教会の働きを、説教、礼拝、問安、祈り 伝道、教育、地域への働き、社会的証しなどのように並列的に並べ、多くの働きの一つに伝道を位置付けるというように自分の姿を認識するようになってしまいました。レヴィナスはわたしたちの中にあるとんでもない思い違いを指摘してくれているのです。レヴィナスが洞察し指摘している観点を失うとキリスト教会の伝道も他宗教の伝道活動も大差なくなります。つまり、地上にはいろいろな宗教があって、どの宗教も布教・伝道活動をする。キリスト教も伝道する宗教の一つであるということになります。このような教会理解は、「教会の存在形式そのもの」を理解していないことを暴露しています。「教会の伝道」を、キリスト教会という宗教団体が、維持・発展するために信者を獲得し、教勢を拡大するための宗教活動であるという理解は、伝道についての「非キリスト教的理解」です。キリスト者が地上を歩みつづけるとき「この道」以外の道はないからです。キリスト者は「永遠の今」を生きます。「伝道の道」は、キリスト者が「永遠の今を生きる道」なのです。ここにキリスト教会の存在理由があります。わたしたちの教会が必要としているのは、「教会は本質的に伝道共同体」ということの意味を再把握することです。「聖書の宗教」と「伝道」の一体的結びつきを見抜く力が必要です。
20世紀初頭のキリスト教世界に衝撃を与えたのは、カール・バルトの『ローマ書(第2版,1922)』でした。キリスト教とキリスト教文化が混合することによって終末論の退潮が起こっていたときに、スイスの牧師カール・バルトが、「終末論」の超越性を強調しました。終末は歴史の中に内在せず、上から突入してくる。終末は歴史の外からの出来事である事をはっきり語りました。とくに神の国は歴史の内部で進展するのではなく、むしろ歴史を断絶させるとしました。「徹頭徹尾終末論でないキリスト教は、徹頭徹尾キリストと関係がない」という言葉でユルゲン・モルトマンはバルトの主張を要約しました。20世紀の初期に一人の牧師が、「徹頭徹尾終末論でないキリスト教は、徹頭徹尾キリストと関係がない」という主張によって教会を覚醒させました。これからの教会の存立の基盤が終末論と伝道論にある事を確認したいと思います。